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石灰岩と山姥の細籔山

 平成十九年十月三十日。晴時々曇り、昼から曇り。

 友人と二人で旧土佐村、南国市に跨る細薮山(五三〇・七三㍍・二等三角点・点名は菖蒲)を目指す。この山は伝説の山姥神社で有名だが、全山が石灰岩の塊であることはあまり知られていない。この山の南には四国鉱発(株)の白木谷鉱業所があり、石灰岩を採掘している。



詳 細 登 山 地 図


赤 旗 が 細 籔 山


赤 線 が 登 山 ル ー ト 、 竈 戸 神 社 の 位 置 は 推 定

 この日、八時二十五分に高知市を出発。高知市正蓮寺から峠を越して、高川と白木谷分岐(九・八㌔)に来、ここから右折して白木谷方面に向う。しばらく行くと道が三つに分かれるが、真ん中の道を採り、やや狭い道を進んでいくと、九時七分に登山口(十二・五㌔、標高四二〇㍍)に着く。ここは前方に山姥神社の立派な鳥居があり、地主若宮様の祠もあるのですぐわかる。祠の横に蔦が這い上がった貫禄がある榎の古木があり、これに吊り札がぶら下がっている。年齢を重ねると無暗に躰が痒くなってくることがあるという。



 九時二十分に登山開始。鳥居をくぐるといきなり植林に入るが適度に間伐されているので日は差し込む。道は参道だから塵一つなくさっぱりと清掃されており、信心の厚さが偲ばれる。





 同二十九分、山姥神社着。右に進むと神社本殿があり、御神体はせり上がった石灰石の大岩で昔はこれに鎖があったという。この付近にはあちこちに巨大な石灰岩が頭を出している。本殿内部には切り株に「山姥神社由来」が記述されているが、変色して殆んど判読できない。山姥と聞くと恐ろしい気がするが、福、豊作、漁船の道標として畏敬されてきたと謂われる。




御 神 体  ( 石 灰 岩 )



山 姥 神 社 由 来

 山姥については「土佐民俗記」(昭和二十三年)に以下の記述があるが、世話好きの好々姥の度が過ぎたもので悪者でない事は明らかである。


現在土佐山村の特殊方言の一つとして時折耳にする山姥(ヤマンバ)は山爺(ヤマジイ)と共に土佐の山村の所々で云われている妖物の一つであるという。

土佐山村では、これを伝説的に信仰して祠を建てて祀っている所さえある。その二三の例を記してみると、同村東川字シラタキに山姥の祠がある。今は昔(百二三十年前の事であると云う)この麓の中野亀次方に山姥の憑いたと覚しき奇怪な事があった。

当時を伝聞する者の話によれば、中野氏方の者が山に居て今日は何々が欲しい何々が食べたいと思い浮かべて家に帰れば、その度毎に希望の物が留守宅に調えられてあり、また櫃の米の減る事も無く、取り出しても取り出して後に米が出て、家は富む一方であった。

この不思議が度重なるので、ある日当主が早仕舞して帰り障子の破れより秘かに覗いてみると白髪頭の異様な姿の老婆が一人せっせと掃除しているのを見受け、思わず驚きの声を出すと、老婆は窓よりタキ(断崖)の方に向って尾を曳くようにして飛び去り、その後は不思議の事も起らず家運も次第に衰え、現在ではその二代目に当る者がこの近くに落魄して暮していると云う(高橋明光氏)。

同村桑尾字上地主にもヤマンバのタキと呼ぶ地名があり、高さ十二間余のタキの近く岩屋の側に、石の竃様のものが二ケ所残されてある。昔、この部落の某が、この近くに稗畑を所有していたが、この稗畑は毎年豊作続きで刈っても刈っても直ぐに穂が出て刈り尽くす事が出来ず、家運も又栄える一方だった。某はこの稗畑の奇怪を怖れてこれに火を放ったところ、畑中から山姥と覚しき姿のものが半焼けとなり、上のタキの方に向かって飛び去るのが見え、その後この家も産を失って落魄してしまった(永野長雪氏)。
 現在土佐山村の特殊方言の一つとして時折耳にする
「ヤマンバが憑く」というのは、思いがけぬ豊作がうち続いて目に見えて家運の栄える様をさして云う言葉であるが、山姥は普通八町四方の森林が無ければ住まぬと云い、常にタキを棲家として自由に飛翔出来るものだと考えられている。前掲東川の中野家に来た山姥は、隣村一宮村(現高知市)の薊野の某家に棲んでいたものが飛来して寄ったものであると伝えている。以上の他に、この村には高川の山中某の先祖にも山姥の稗畑の伝説があり、菖蒲の部落にも山姥ケ谷の地がある。


九時三十五分、神社を出発して山頂に向うが、ここから清掃されてない落ち葉が堆積した道になる。やがて竹林に入り、次いで植林と雑木林の中を登っていくと、同四十一分、左に蜜蜂の巣箱が見えるが、ここは絶壁になっており展望が開けている。




 ここを過ぎると、左にやけにテープが付けられた所を入り込んで、ゆるやかな雑木林を登山道と同方向に進んでいくと、同五十一分、山頂である。



ここは三角点を中心として直径四㍍位の円形の広場となっており、展望は全くきかない。薄暗く陰気な感じである。

昭和二十三年の点の記が興味深いので以下抜粋して記載する。これは災害復旧の際の記述である。

 先ず、二等尋常覘標とある。選点は明治三十四年、昭和二十三年に災害復旧。所在は土佐郡土佐山村大字菖蒲字ホリヤブ一六五一番地である。

柱石長は〇・七八九米、覘標の敷地は六坪。

順路は、長岡郡上倉村萩野部落より西方に約二粁にして久礼野部落に達す。それより北方の山道約二・五粁にして山道の二又に達す。それより東方山道を約五百米にして山頂本点に達す。道路坂道であり難儀する。

材料準備・手段・其価格は、丸太は測站付近にて召集、杉六分板及び角材は長岡郡大篠村にて求む。石当り九百五十円。

運搬の手段は、上倉村萩野部落までは車力にて可。それより先は人肩運搬。

作業間棲宿は、上倉村部落若しくは幕営、萩野部落。

食料品を取るの地、里程は、土佐郡平石にて、粁程八粁。

障碍木の有無、伐採の数及び樹種は、障碍樹伐除三百本、種類は檜なり。

旅舎は、土佐郡土佐山村平石旅館に宿泊す。

案内人は、土佐山村役場に依頼して雇う。

最寄郵便局は土佐山村。


以上のように、ここの三角点設置についての労苦が偲ばれる。特に重量物の人肩運搬、人集め、障碍樹伐除三百本等は当時としては大変な仕事であったことが分かる。このような気持ちでしげしげと三角点や周囲を眺めていると、今昔の感を深くする。なお、平成二十三年の国土地理院の点の記に点名「菖蒲」の記載はない。廃点になったものか、内容の調整中なのかはわからない。



「 二 等 三 角 點 」

 十時十分に下山開始。時間が余ったので、もと来た登山道に出て、これを北東にさらに進んでみた。道はどこまでも続き、どこまでも緩やかに下っているような感じである。このようなのどかな山道の歩きは誠に気持ちのよいものである。



十時十分に下山開始。時間が余ったので、もと来た登山道に出て、これを北東にさらに進んでみた。道はどこまでも続き、どこまでも緩やかに下っているような感じである。このようなのどかな山道の歩きは誠に気持ちのよいものである。



竈戸神社は通常山頂に鎮座されていることが多いというが、ここもコブになった山頂のように見える。こんもりした直径一五㍍位の円形の広場になっているだけのものだが、小奇麗に清掃されている。竈戸神社は三宝様ともいわれ、三宝とは太陽の神、月の神、地球の神、又は佛・法・僧のことだそうである。ここを下った処の奈路地区の清池神社の流れをくむものか?

この道はどこまで行っても果てがないようなので、引き返す。十一時五十二分に駐車地に着いた。