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古墳・古城址の烏ケ森

 平成二十年三月五日。晴れ、風強く、朝方は雪が舞う。土佐山田を通過する際には、東方に見える梶ケ森方面は雪で燻っていた。

 友人と二人で、香南市野市町西佐古字新田で低山ながら山容が美しい烏ケ森(からすがもり、一九一・七㍍・四等三角点)を目指す。山頂付近は一四九二年頃の城主・富家刑部の城、濠、櫓、塀址が残っている。また南麓には横穴式石室墳(後述)が発見されている。古の歴史が残る処である。


詳 細 登 山 地 図


中 央 赤 旗 が 烏 ケ 森


詳 細 図   × 印 は ウ ラ ジ ロ 繁 茂 の た め 進 行 を 阻 ま れ た 地 点



 この日、友人と二人で八時五十七分に高知市を出発。国道一九五号線を東に走り、香美市土佐山田町繁華街東から南下して、九時四十分に戸板島橋を渡り、北方に進む。町田橋を左に見てさらに一〇〇㍍進んだ所で同五十分一旦停車。二一・七㌔、五十三分を要した。

そこで東の山を見上げていると、どこからか防除機を担いだ中老の男性が出て来た。偶然だったが、なんとこの人が烏ケ森の山主だった。「ここから登ると直登になるのできつい。町田橋東詰から谷を登って尾根に出、そこから北に進むルートがよい」と教えてくれたので、そちらに移動する。



登 山 口


竹 林 の 谷



 十時六分、登山開始。いきなり竹林の密集地に入る。道ははっきりしていて谷の左を進む。そのうちに一面の植林地帯に入るが、間伐された倒木があちこちに横たわっていて道が定かでなくなる。そこで上空の峠のように見える所を目指して倒木を避けながら直登する。




 同四十一分、尾根筋に飛び上がる。左(北)は植林、右(東)は自然林になっており南北に小径が見える。ここから北へ進むと同四十七分に谷のような所へ来る。ここに壕址(貯水穴?)が三ヶ所ある。最初の壕は三㍍四方、その次は一・五㍍四方、最後は一㍍四方の大きさで内壁は石をついてある。その向うに湿地帯が見える。




濠 址



 ここを右に真っ直ぐ直登すると、山頂である。十一時丁度、登り始めて五十六分を要した。三角点は東西に二十㍍位の長さの土塁か塀址のような所の東詰めにある。



土 塁 の 上 の 頂 上



 この土塁のようなものは緩やかな山頂の北側をそのまま置き、南側半分を削り落した恰好になっているので、ここは広場の様になっている。その広さは東西二十㍍、南北十㍍位の矩形で、雑木が点々と生えている。ここが城砦祉だろうか。三角点の北は植林、他は自然林となっており展望は全く利かない。風が強く猛烈に寒い。




土 塁 か 塀 の 基 礎



 土佐古城略史(昭和十年)に、「佐古烏森城」について以下の記述がある。

 『城主、富家刑部。延徳四年(一四九二)六月八日、香宗我部出羽守親秀が西山豊後入道の二男某を富家村新宮別当職に補す。

 烏森城は神母木渡頭の南七八丁ばかりにあり。山頗る高峻、山腹より以上樹木繁茂し、荊棘蒙密して路絶ゆ、藤蔓を挽き荊棘を排し、攀じ登って牙城に達す、西辺に残塀あり、その他壕址櫓址一々精検するあたわず、西に下ると数歩の廓址あり、ここに至り樹木なし、幸に樵道を得て下る。』



城 址 、左 方 に 土 塁



なお、この頃の土佐では、文亀元年(一五〇一)、守護代細川勝益が香美郡田村(現、南国市田村)に桂昌寺(現、細勝寺)を建立している。


十一時十八分、ここから東に鳥越山、大峰山に通じる尾根筋を南東に歩いてみることにする。できれば約一・六㌔先の鳥越山(二二七・五五㍍、四等三角点)までと思ったが、中々そうは問屋が卸さなかったのである。

同二十二分、二つ目の広場に来た。ここは山頂広場より東西がやや長い。ここにも城砦があったのであろうか。雑木がてんでに生えている。同三十五分、引き続き尾根筋を南東に進むが、左は植林、右は自然林で国土調査の杭が延々と打ち込まれている。



尾 根 筋 、 左 に 植 林 、 右 は 自 然 林


嫌 ら し い ウ ラ ジ ロ



 同五十一分にコブに来た。ここでも左は植林、右は自然林だが、十二時十八分、植林の中を進んでいると、前方にピークが見えたが、高さ一・五㍍位のウラジロの密集地に入って歩行困難になり、このような状態は蜿蜒と続いているようである。国土調査の杭も見えなくなった。ウラジロの薮漕ぎの恐ろしさは経験済みなので、ここから引き返すことにする。そこから十分位戻った日当りがよく風当りの少ない所で昼食。

 十三時四十七分、下山開始。往路を辿るのは気が進まないので、十分位往路を戻った地点(一八〇㍍)から左(南西)に谷へ降るような小径が見えたので、躊躇わずこの径を採ることにする。目指すは香南市野市町西佐古である。道はかなり荒れており、谷を左に見ながら下降していくと、次第に明瞭な道筋となりやがて植林に入る。ここの植林の管理は、今までいろんな処で見てきた植林の中でも最高の手入れがなされており、間伐、枝打ちは完璧で感嘆する。始めて見た。



見 事 な 植 林


奥 ノ 池 、 上 中 央 右 に 烏 ケ 森



 十四時二十五分、西佐古奥ノ池(九〇㍍)に降り立った。大きい溜池の北に柿の果樹園があり、ここで男女三人が柿の樹皮を擦っていた。その横でゴロンと犬が呑気そうに寝そべっていたが、「犬の手も人の手にしたい」という諺を思い出して可笑しかった。ここで少し談笑をする。烏ケ森南麓には横穴式石室墳(後述)が発見されていると前述したが、この付近ではないかと思ったので、訊いて見ると、「私共はここの在ではないので判らない」とはぐらかされてしまった。在の者でも知らないのではなかろうか?



左 が 烏 ケ 森
こ の 山 麓 に 古 墳 が あ っ た の か



同三十二分、ここから南に歩き、土地の人に山越えの近道を教えてもらって車道に出、さらに約八〇〇㍍を歩いて、駐車地に着いた。十五時四十分、昼食をした所を出発して実質一時間四十六分を要したことになる。しかし疲労感はなく逍遥でもしているような感じであった。

この烏ケ森付近は、古来歴史が積み重なって来た処で、そのような気分で歩くと、また趣きも違って来るのも面白く感じるのである。

(参考 ) 後期古墳時代の後半―七世紀の土佐―

《 横穴式石室古墳の盛行 》 


七世紀は中央では仏教文化の花がすでに咲いている。土佐では七世紀も後半でないと仏教文化が移入しない。土佐の歴史で古墳が多く築造されるのは、七世紀前半である。しかし多いといっても、他の地域のこの時期の古墳数と比較すると多い方ではない。またこの時期の古墳の外形はすべて小円墳である。そしてその内部構造はほとんどが横穴式石室であって、他の内部構造のものは見あたらない。 

ここで、七世紀前半及び七世紀中葉の横穴式石室古墳をその分布を知るために列挙する。またその古墳の出土遺物も添記する。(注、全117の内、105~117までを掲載、他は割愛)


105 香美郡土佐山田町前行大元神社東側 前行古墳群の四(須恵器)

106 香美郡土佐山田町グイミ谷 グイミ谷古墳(須恵器)

107 香美郡野市町富家新宮 新宮古墳(須恵器)

108 香美郡野市町富家本村奥力谷大崎山 大崎山古墳

109 香美郡香我美町下分字鳴子 鳴子古墳(管玉・案玉・直刀・槍)

110 香美郡夜須町西山ノッコ ノッコ古墳(須恵器)

      111 香美郡夜須町坪井梶力山 坪井古墳(勾玉・管玉・切子玉・直刀・鉄鉱)

112 香美郡野市町東佐古アゴデン アゴデン古墳(須恵器・土師器)

113 香美郡野市町東佐古上分小山 上分古墳

114 香美郡野市町西佐古烏力森城跡 烏力森城跡古墳(須恵器)

115 安芸郡安田町東島大木戸 大木戸一号墳(須恵器-子持壷)

116 安芸郡安田町東島大木戸 大木戸二号墳(須恵器)

117 安芸郡安田町東島大木戸 大木戸三号墳(須恵器)


 さて六世紀前半及び六世紀後半代の古墳は、十指内ぐらいの数しか発見されていないのが、六世紀末ごろから七世紀前半、そして中葉と急激にその古墳数がふえてくる。この原因は六世紀末より七世紀前半にかけて、土佐での農業生産力が今まで以上の発展があったと考えるほか考えようがない。そしてかつて国造りの支配下にあった政治集団の内部に、生産単位の小集団が家父長を中心に自立化したことによるのでなかろうか。

この六世紀末より七世紀の前半は、土佐では躍進期である。その姿は弥生後期前半(二世紀代)の集落が急激に増加するのと同様である。その躍進の姿は同様であっても、―一方は集落数の増加であり、一方は古墳の数の増加である―その内容というか質は大きく異なっている。即ち集落の増加は人口の増加を意味し、古墳の数の増加は階級の分化と小家族の出現を意味するのである。 

さてこの七世紀前半の古墳群が『和名抄』の郷、またはそれに近接する所にあるものとを、挙げてみる。ただこの場合「和名抄」の郷は、古来多くの郷土史学者によって推定されている場所をもってあてている。

宇和郷、大方郷、高岡郷を含めて四十四郷を割愛し、関係のある深淵郷のみを掲げる。

《 深 淵 郷 》 

今の野市町佐古一帯を深淵郷と郷土史家は考えている。というのは佐古に深淵とよばれる部落があることによる。 本郷に関係深い古墳として

香美郡野市町東佐古 アゴデン古墳  

香美郡野市町東佐古 上分古墳 

香美郡野市町西佐古 烏力森城跡古墳 

以上三基の古墳は七世紀前半の古墳で、七世紀後半のものとして  

野市町母代寺 溝淵山古墳

がある。

本郷には多くの平安時代の窯跡が発見されていて、特にそれは「和名抄」前後の時期のものとみてよい。野市町母代寺亀山には六基の窯跡、そして野市町東佐古白岩には四基の窯跡が発見されている。

(高知県史・考古編、昭和四十三年より)