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意外な三角点の大平峰

 平成十九年一月三日、うす曇。
 土佐市所谷集落の北に見える「大平峰」(おおひらみね、三八七・六㍍)を目指す。しかし主峰は四一四㍍だったのである。



四 一 四 ㍍ の 主 峰、右 の 赤 印 の 地 点 が 三 八 七 ・ 六 ㍍ の 三 角 点

登 山 詳 細 地 図



 この日、八時二十五分、高知市出発。国道五六号線を西に進み、土佐市高岡の中心街を過ぎて四㌔行った所谷で右折し、北方に車をどんどん走らす。やがて間谷神社の鳥居付近の「三叉路」で右折して神社の横を通過していく。簡易舗装の幅員三~三・五㍍の作業道だが、蜜柑園地を栽培している所までは整備されているが、これを過ぎて放棄園地を過ぎる所から次第に荒れ、幅員も狭くなって何時の間にか舗装もなくなる。九時二十七分、「第二の三叉路」で駐車。ここから更に道は続くが、大荒れで車では無理と判断した。




 身支度を整え、九時四十分、作業道を歩くと同五十分、「第三の三叉路」。間谷神社から一・八㌔、標高が二九〇㍍の地点である。ここで登山口を探索する。先ず、右(北)の作業道に入ったが十分位で行き止りになっており、途中、登山口のような所が二か所あったが、それらしくない。三叉路へ引き返し、今度は真っ直ぐ(西)に進むと、これも五分位で行き止りである。しかし三叉路から三〇㍍進んだ右側にそれらしい登山口を発見した。



登 山 口 に 目 印 を 付 け る



 十時十三分、ここから北面の登りに入る。山頂まで目印は全く付けられてなく、ルートを探りながら、要所に目印を付けて行く。

同二十三分、放棄園地の縁を左(西)に巻くように進んでいく。この園地の蜜柑は色づいているが、いずれも固い。ここを抜けると右(北)に進むが、ここから雑木林に入り道筋が不明瞭になる。




曲 が り 松


ヤ マ モ モ



 同三十二分、竹が混じり、大量の栗のイガが落下している。同四十四分、振り返ると土佐市方面が見えるが枝に遮られてチラチラ望見できるだけで、しかも後にも先にも、展望が開けている所はここだけである。




 同五十七分、西に雑木林、東に桧の植林の境目を登っている。十一時十一分、桧と雑木の混合林の中を北方に進んでいく。やはり道ははっきりせず、コンパスで確認しながら北方を目指し、上空が透けて見える方向を見定めながらの登りで尾根筋の直ぐ南を登っていく。かなりの急斜面もある。大木になったヤマモモ二本に出くわした。次第に山頂が近づいてことが判るようになる。その内に、見当を付けて直登すると、十一時十九分、四一四㍍のピークに着く。




 ここには三角点はないが、立派な石造りの石鎚神社の祠がある。直ぐ左横に木柱が打ち込まれており、これには「大平峰石鎚神社参拝記念」とある。周辺は雑木林と竹がやや疎らに生えて全体にかなり広い広場のようになっているが、展望は全く利かない。祠の西と南に直径三㍍位の円形の窪地があり、縁には所々人工的な石垣が積まれている。砦址であろうか?




池 の よ う な 凹 地、 自 然 の 石 垣 に は 見 え な い



 「土佐国古城略史」に、長宗我部元親の時代の頃、「大平氏が蓮池、高岡、大内、波介、北地外一七ケ村、一万六二九〇石を食む…」とある。この北地は大平峰を包含する地区である。近くの吉良ケ峰の麓に吉良氏居城の吉良城があった事を考え併せると、この大平峰が大平氏と関係があると考えるのが道理であると思う。ただ、大平氏の城があったという記述はない。「…大平氏は何の故、又何れの年より称する歟、未だ考へず」ともあって詳細を欠いている。



右 に ク チ ナ シ、 赤 い 実


昭 和 三 十 一 年 選 点



 この祠から北東に進み、急降下して少し登り返すと、二〇〇㍍位で三八七・六㍍の四等三角点(点名・大平峰)の柱石がある。付近は桧の植林が伐採されて、東西三〇㍍、南北一〇㍍の矩形の広場になっているが、展望は全く利かない。少し殺風景のような感じで、やはり祠のある四一四㍍のピークを大平峰の主峰とするのが妥当と考えられる。冒頭の写真を見ても両者の落差に驚かされるのである。このような事例は少なくはないが、大平峰の場合はやや際立っていると思う。ここからさらに北東に進む道があるが、直ぐ途中で途切れる。

 十三時七分、下山開始。登りの時に要所に目印を付けたので、歩き易い。同五十五分、登山口着。四十八分を要した。

 所谷集落へ降りて来て、地元の人達の話を聞こうとした。最初、二人の若い男性に会ったが、「大平峰という山は初めて聞きました」という返事。又、四〇がらみの男性は「山は好きで、前に登ろうとしたが、藪漕ぎで道筋もはっきりしないので途中で諦めた」と言った。そこでルートを説明し、目印を付けたことを告げると、「では、その内に登ってみます」という返事だった。「灯台下暗し」とはこのことか。


 所谷集落に、戸波城主・福井玄蕃の墓所がある。「土佐国古城略史」によると次の通り。



自 然 石 に 少 し 手 を 入 れ た 墓 石。
刻 字 は 擦 れ て 判 読 し 難 い



 戸波城は戸波谷の東口にあり。城主・福井玄蕃頭、相承くる所の世系詳びからず。…初め津野内蔵佐之に居り、後、一條氏撃て之を抜き、玄蕃をして戸波城に居らしむ。永正十四年(一五一六)、津野元実之を攻め報復を謀り、却って一條氏の敗るる所となり、その志を得ず。その後、蓮池一條氏を撃ちて之を取り、又、天文十四年(一五四五)一條氏蓮池を撃ちて之を復す。天正二年(一五五四)一條氏敗績するに及んで、元親之を奪い、中島右兵衛尉に与う」とある。

 続いて、「玄蕃に係る事蹟他の所見なし。ただし、幡多郡平田村の大明神に、天文十三年(一五四四)の棟札に、武運長久云々福井右京亮と。又、山上郷小野村祇園社に元久元年(一二〇四)の棟札に、福井主膳の名を署す。これにより観れば、玄蕃の一條氏の臣たること明らかなり」とある。それにしても、戦国の世の栄枯盛衰はまことに目まぐるしい。
 (平成十九年一月記)