平成十八年十二月十八日。晴、前夜から寒波襲来、風が強かったが、昼前には収まる。西部山間部では積雪。
友人と二人で虚空蔵山の北東の峰続き、土佐市・佐川町境の「石槌森」(いしづちもり、三九五・二㍍)を目指す。一名、「猿ケ嶽」とも言うらしい。
詳 細 登 山 地 図 |
八時二十三分、高知市出発。国道五六号線を西に走り、土佐市甲原で県道五三号線に乗り換え、九時二十八分、土佐市谷地集落の赤い欄干の大坊橋に着く(二七・八㌔)。ここから南へ三〇〇㍍進んだ左方にある作業道に乗り入れる。幅員三~三・五㍍の簡易舗装の道が暫らく続くが、途中からガラガラの荒れ道になって歩行とは変らない速度で進んで行く。何度も腹を擦った。歩行の方がよい位である。
同五十九分、作業道入り口から一・九㌔進んだ三叉路の広場(三四〇㍍)に駐車、作業道入り口から二十七分を要した。左の車道は藪化しつつある、右のそれは降り道になっている。ここが作業道の終点と思われた。
十時十三分、身支度を整え、左の道を二〇〇㍍位行くと左側に極めて不明瞭な登山口がある。目印を付ける。ここから微かな踏み跡を頼りに桧と雑木の混合林を右(南西)にとりながらトラバース気味に登っていく。前方上には岩場が幾つか見え、これを避けながら進んでいく。同三十六分、尾根に出る。そこには人工と思われる一段高い石垣があり、石が積まれている。
これをさらに右(西)に行くと、同三十九分、三等三角点である。駐車地から二十六分を要した。作業道入り口からは一時間七分である。
山頂は少し盛り上がった土塁のような開けた所にある。南は自然林、北は桧の植林で展望は全く利かない。昔は三角点付近も植林されていたらしく二十年生位の切り株が複数ある。ここから西へ四分位歩くと四国電力の送電鉄塔広場があり、北西端に降下する小径があるが、これは作業道入り口から谷を隔てた小径に通じているらしい。
十一時丁度、取って返して三角点の東の岩場に向う。狭い頂の岩下に二体の猿の石像が安置されており、高さ三〇㌢位の薄い金属板の鳥居が二基ある。一体の猿神の鼻辺りが欠けている。ここが「猿ケ嶽」(四〇〇㍍)であろう。
三角点より五㍍位高く、日当りも眺望もよい。実質的な山頂というべきだろう。南西に虚空蔵山が指呼の間に見え、アンテナ九本を数えることができる。尾根伝いに二時間強で行くことができるという。
ところで、猿の祭神は全国的にも少なくない。「越後タイムス」に以下の記述がある。
民俗の視点から猿を見るとき、まず山王信仰や庚申信仰との関連を想定するのが普通である。近江の日吉山王権現は、猿を神使とすることで知られる。記紀に登場する猿田彦が、天界と地上を媒介する猿神であったように、山王信仰では山の神の手先と信じられた猿を神聖視し、自らの象徴とした。この天と地を媒介する猿の役割は、庚申信仰にもみられる。石仏の庚申塔には、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿がよく刻まれる。天界と地上とを媒介することから、境界神としての性格が濃厚である。そもそも猿とは、自然と文化(人間)の境界に位置する動物であり、それを神格化したのが猿田彦とされる。猿田彦が、塞神や道祖神として祀られるのもこのためである。
このように猿には、境界神的性格が認められる。この神は、今昔物語や宇治拾遺物語にも出てくるが、何れも美しく若い娘を生贄にして食べていたのを猟師が懲らしめる話から転じて、邪悪なものの侵入を守護するという。また、猿神は子育ての神として子宝、安産、育児や牛馬の安産守護にご利益があるという。
十一時二十分、さらに東の岩場に行ってみるが、何もない。
同三十分、下山にかかり同四十二分、尾根からの降下する。途中、鎖場のような岩場が見えたので行って見るとただの木の根っこであった。この山には鎖場があると聞いていたのだが……十二時三分、作業道。同十一分、駐車地に着く。
作業道がかなり荒れているいるので、歩行による登山がよいかもしれない。そのルートは、次頁の「光明峠」に紹介してあるように、穴地蔵の右を登って作業道に出、ここからやはり右に九〇〇㍍作業道を歩く。以下は同じ。こちらの方が時間的にも早いと思われる。
ここから「光明峠」(三〇六㍍)の所在を探索する。旧加茂村と旧戸波村を結び、弘法大師もここを通り、谷地集落に高野山のような寺院の建築を画したといわれる。地名も大坊、中坊、小坊などがある。
谷 地 山 略 図 |
大坊橋袂の寺の壁に大正十二年に奉献された地図(上の「谷地山略図」参照)が掛かっている。これを見ると、「穴地蔵」(後出)から南に旧戸波村へ通じる道が描かれている。そこで私共も穴地蔵の右の谷の薮化した踏み跡をさばきながら登ってみた。十分位でいきなり作業道に出た(作業道入り口から一・二㌔)。ここに目印を付け、さらに道の上を登って行くと五分位で鞍部に来た。荒れて藪になっているが、なんとなく峠のように見える。なにか目印になるものはないかと探して見たが何もなかった。降り道になった小径が見えるが、これが戸波の光明、積善寺集落に通じているに違いないと思った。
さて 、「穴地蔵」だが、大坊橋から真っ直ぐ南に五分位車を走らせると、突き当たる。立札があって以下のように紹介されている。
『正式の名は「岩屋地蔵」という。岩屋の中に三体が鎮座し、中央が本尊である。藩政の頃、江渕某という郷士が法華寺へ石地蔵を奉納しようと持参したところ、「出来が悪い」と住僧が石段から投げたため、二つに割れたという。この割れた石像を合わせ祭った事に由来するという。この地蔵は、穴に係わる病に大変ご利益があるといわれ、旧暦の一月二十四日、十月二十四日の縁日には、ご利益を受けた人たちが、自分の歳の数だけ餅を投げる習わしがある』
ご利益を受けた人たちが奉納した地蔵さんが所狭しと立ち並んでいるのが壮観である。この日も若い男女が来ていたが、ただの物見か願い事があってのことか、地元の人の話では、参拝者が多いということである。
また、大坊橋袂には、「影向の杉」(ようごうのすぎ)がある。ここにも立札がある。
「この杉は、三本が根元で合着し、根続き、根上がりの珍しい形になっている。幹回りは東から五・二㍍、四・五㍍、三・七㍍。樹高は中央が二六㍍で、樹齢は推定五〇〇年。影向とは、神仏が姿を変えて現れる事をいい、この名称は北原村史(大正五年刊)に見える。土佐市指定・天然記念物」。この神木はその大きさと高さで周囲を圧倒している。
(平成十八年十二月記)