平成十九年二月十一日、晴。
友人と二人で高知県高岡郡佐川町の西奥地の「地蔵ケ森」(四五二・六㍍)と「陣ケ森」(四二四・五㍍)に登り、併せて「三峯山」(四四二・四㍍)に立ち寄る。この付近は作業道が錯綜しているので、登山口の特定が容易ではないのである。
この日、八時二十五分、高知市出発。国道三三号線を西に進み、佐川町川内ケ谷地区で右折してさらに山道を西に行く。九時二十四分、越知町境の赤土坂(三三五㍍)に来る。ここに「脱藩志士集合の地」の碑があり、以下の碑文がある。
「元冶元年(一八六四)八月十四日、死を賭した血盟の佐川勤皇五士が脱藩のため集合した場所である。昭和十四年(一九三九)、この地に記念碑が建てられ、題字は佐川領主十三代深尾隆太郎の筆である。題字の上に、
真心のあかつち坂にまちあわせ
いきてかえらぬ誓なしてき
の青山、田中光顕伯の詠吟は、志士の心中を余すところなく伝えている」と。
ここから直ぐ左にドッグレグして作業道に入るが、道を間違って十分位のロスが出た。同五十四分、三叉路があり、これを右折して南に進んでいくと視界が開け、膨らんだ道脇に廃車が置かれている所で駐車。佐川町方面が俯瞰される。
ここで準備を整え、まず地蔵ケ森に登ることにする。十時十五分、三〇㍍先に進んで右折し、樹園地の中の作業道を登って行くと、登山道に入る。
やがて日当りのよい自然林の尾根筋の南を登って行く。道は歩き易い。
十時三十八分、山頂に着く。作業道の登山口から二十三分を要した。ここの四等三角点は平成十四年に設置された新しいもので、柱石は軽量標識と言われるコンクリート製で上部には刻印された円い金属板が埋め込まれている。ここは周囲が南北六㍍、東西一〇㍍位の広場になっており、自然林なので日当りもよく、南に佐川町や虚空蔵山が見え、北方は樹間から山並みがちらちらしている。「地蔵」を表徴するものがなにもないのが聊か残念である。
十時四十八分、ここから西へ五一一㍍のピークまで足を伸ばしてみる。一度降下して登り返すが、この登りがかなりきつい。尾根の南を進むが、北は植林、南は自然林である。十一時三分にピーク、プラスチックの標柱があるだけで、展望は全く利かない。地図を見ても、ここに三角点を設置するのがよいのではないかと訝しく思う。同十二分、ここから引き返し、同三十分に地蔵ケ森に戻る。
十一時三十四分、下山開始。同四十六分、登山口の作業道に着く。十二分を要した。ここの登り口に目印の木札をぶら下げた。
十一時五十六分、ここを車で出発して陣ケ森に向う。作業道を九分進んだ十二時五分、膨らんだカーブで駐車。この先は道が荒れているので徒歩で進むことにした。廃車の所からここまで徒歩でも時間的に余り変らないと思う。それ程ののろのろ運転しかできない。
十二時十一分、出発。途中に木で造った門扉があったところを見ると、この作業道は私道であろう。十八分歩いた同二十九分、三叉路があって、ここを右折する。この辺りの歩行は四囲の状況から判断した勘による。見当をつけた動物的勘と言ってもよい。ここから三分歩いた同三十二分、作業道から分かれて左の登山道に入る。道はまずまずである。同三十七分、コブ(四二〇㍍)を通過して東南東に進んでいると、同五十一分、四等三角点の陣ケ森の山頂である。駐車地から四十分、登山道に入って十九分を要した。
付近は三㍍四方の広場で周囲は植林、南側は自然林となっており、展望は全く利かない。なんと言うこともない山頂である。
ここで昼食をして、十二時二十四分、下山開始。登山口まで十分、駐車地に同五十六分着。山頂から三十二分を要した。
十三時三分、駐車地を出発して、北方の「三峯山」に行く。同三十一分着。
そ の 向 こ う が 黒 森 山 、右 が 尾 茂 内 山
ここにはNHK佐川中継所があり、左の石段を上ると三峯神社がある。四等三角点の柱石と標示杭はその直ぐ左にある。南に一八〇度の展望が開け、佐川町、虚空蔵山、蟠蛇森、石槌森、シラザレ、大平峰、地蔵ケ森、陣ケ森等が見える。
十三時五十九分、下山開始。十四時十四分、国道三三号線の川内ケ谷地区を通過して高知市に向った。
この山域には、人家は殆どないが、田畑があって各所で生姜の植付けのための整地作業が行われている。関係する農家は領家集落の人だと思う。至る所で作業道が錯綜して走っており、しかも地図に記載がないので、余所者が目標とする山へアプローチするのはかなり難しいのである。私共は運良く登山口を探すことが出来たが、登山道より作業道を進むのが難しい山ということができる。
(平成十九年二月記)