平成二十三年六月三日、曇り時々晴れ。
高知市春野町秋山の四国霊場三十四番札所「種間寺」の南に、まるでこの寺の裏山のような感じで鎮座しているのが種間山(九八・六五㍍)である。この山には何かあるに違いないと見当をつけて行ってみたが、迂闊なことに、全山が八十八ヶ所巡りになっていることを知らなかった。遍路は必ず菅笠に、迷故三界城 悟故十万空 本来無東西 何処有南北(迷うが故に三界は城にして悟るが故に十万空なり、本来東西なし、いずこにか南北あらん)、さらに同行二人と書き込む。われわれはそれを怠ることになった。
詳 細 登 山 地 図 |
この日、友人と二人で高知市を出発。どういうわけか東に迷走してようやく種間寺に着いた。この付近の道は入り組んで油断するととんでもない処へ迷い込んでしまうのである。
さすがに札所の種間寺ともなるとすべてが豪奢で貫禄があり、遍路さんも参拝客も多い。ご本尊は国の重要文化財である木造薬師如来坐像で安産の仏様として有名である。
十時五十二分、広い駐車場(標高五㍍)から直ぐ南の秋山霊園の中を通り、灌漑池を右に見ながら田んぼ道を横切り幅二㍍位の舗装した道を南に進む。と、左方にミニ八十八ヶ所の石柱があった。
事前にこの事を知っておれば躊躇なくここから登っていたのである。これが正解だったが、実は山頂を目指すだけなら別の正解もあったがこれは後で判る。しかし石柱付近が薮化していたのと、真っ直ぐにきれいな道が通っており、目指す種間山がもっと右方にあると見当をつけていたので、無頓着にどんどん通り過ぎてしまった。
しばらく行くと、舗装がなくなり、道幅も狭くなったと思うと、遂に道がなくなった。
左に道らしいものが見えるが大荒れの薮になっている。そこで前方(南)の透けて見える尾根を目指して植林の道なしの直登をすることにした。十分で尾根に飛び上がった。東西に幅一㍍の立派な道が走っており、右に十九番の地蔵さんが安置されていた。ここで初めてこの山がミニ八十八ヶ所になっていることに気付いた。そして登り口の石碑の意味も理解したのである。
地蔵さんの安置が続く尾根筋をしばらく行くと、二十四番の地蔵さんにつきあたり、道は左に下りながらこの山を回っているようだが、この下るのが気に入らないので二十六番の地蔵さんの所から分かれて尾根を直登することにした。勿論、道はない。二つのコブを越えたが、西方にピークが透けて見えるので、これを目標に進んでいると突然道へ飛び出した。なんのことはない、先ほどの下りながらこの山を回っていた道に合流したのである。ここは峠のような感じで、六十六番の地蔵さんが安置されていた。
道は北に向って下っているのが見える。ここに地蔵さんがあるところをみると、二十六番から山をぐるりと回って六十六番まで来たという事であろう。躊躇なく真っ直ぐに尾根を直登をする。大山祇神社があり明治三十二年東諸木村奉献と刻まれた石碑がある。
さらに進むと、大きな祠もある。十二時四分、山頂に着く。駐車場から一時間十二分、尾根に辿り付いてから四十二分、峠から九分を要した。
山頂付近は広葉樹林に覆われ鬱蒼としてじめじめした感じで陰気くさい。南北二㍍、東西十一㍍位の広場になっており、西方十㍍に石段付きの神殿があるが、北に向って倒壊しているところを見ると強風に煽られたに違いない。
四等三角点の北三㍍に楢の古木がある。この付近の雑木を伐採すれば眺望は素晴らしいだろう。所在は高知市春野町森山字北ケ谷三〇〇三番一で、点名は「井口」である。所有者は種間寺の方かと思っていたが、どうもそうではないらしい。選点は昭和三十一年だが、この三角点が変っている。北面の側面に六つの数字が彫り込まれている。このような石柱は寡聞にして知見がない。ここにもICタグを組み込んだucodeが象嵌されていた。
付近は湿度が高いせいか無暗に蚊が多い。いつの間にか腕に群がっている。気持ちが悪いので昼飯を抜きにして早々に下山する。
峠に戻ったが、来た道を通らず、北に向って下っている道を採る。
この道はやはり遍路道で各所に札所の地蔵さんが鎮座している。四分して神社跡に来る。石碑と石段のある立派なものだが、建物は崩壊し朽ち果てている。明治二十八年という彫り込みが辛うじて判読できた。神殿跡には竹が生えていた。
道は緩やかに下っている。うつ伏せになった地蔵さんがあったので、元に戻そうとしたが一人では無理なようである。これまで拝んできた地蔵さんの横には必ずお供え物を入れる鉄網篭が置かれ、印旗を掲げる支柱が立てられていたが、これは誰か一人の人が奉仕しているのではないかと思った。二人以上ならうつ伏せになった地蔵さんを元に戻したはずだからである。道はどんどん下がっている。
最後の札所の地蔵さんは八十四番だった。
一時三分、灌漑池の南面に降り立った。
山頂から二十九分を要した。こんな所に登り口(降り口)があるとに全く気が付かなかったのは至極当然で付近から見てもここには気が付かない。ここはミニ八十八ヶ所の種間山の最後の地点であったのである。山頂を目指すだけならここから登るのが正解ルートである。さて種間山の札所は八十四番で終っているので、この後を探し回ったが、何故か、灌漑池の北面の道端に鎮座しているのを発見した。八十七番まではなんとか判読したが、八十八番は遂に見つけることはできなかった。大きいものを置き去りにしたような気持ちで駐車場に帰ってきた。
駐車場の直ぐそばに喫茶店のような軽レストランがあったので、雪氷を食べに行く。ここの若女将が「聞いてはいたが、やはりミニ八十八ヶ所はありましたか」と言ったところをみると、どうも種間山は余り人気がないらしい。写真を見せると驚いたような声を出していた。
やっぱり種間山はすでに忘れられ去られて来ているのであろう。あちこちにある祠の崩壊や、ミニ八十八ヶ所の地蔵さんの彫り込みのかすれ具合などを勘案すると、これらは百十年前の明治三十年前後に建立設置されたものと思われるのである。その後、多少の手は加えられて来たものの時代の流れで遍路道としての価値は次第に減少してきているのであろう。今では登る人も殆んどいないのではないか―――