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四国の山なみ~父の山岳文/奥物部の自然保護

2023/12/15

 古典山岳文献、写真も保存した


一番の目的は達成したので


あとはのんびりと、気になったものがあれば保存しよう。。。と思ってたんですよ


しかし、最近 GeoLog Project にアクセスできない事が多くなってきた


すると、、、

ん?



マジか!?


ドメイン維持して見れるように、、、

Internet Archive へリダイレクトするとは言ってますが

画像等も見れるのか?

文章等も全て見れるとは限らない

そもそも検索には引っかからないんじゃない?

アドレスを知ってないと二度と見られないぞ


全て保存するつもりもなかったし

山行等はそもそも保存するつもりがありませんでしたが

年内に全て目を通して、一文、一言でも気になる事があれば保存していきます

 ※四国の山なみシリーズは一部ダークモードに対応していない箇所があります。ライトモードでご覧ください。文字の色、背景色等を変更して元の雰囲気を壊したくないので。 

奥物部の自然保護

三嶺(みうね、一八九三㍍)という地名は山の形からきているといわれている。

阿波側祖谷の谷からみると、三つの嶺(うね)が並んでみえるので三つのうね、つまり三嶺である。

土佐では山の峯を「うね」という。

このごろ若い人たちの間では、三嶺「さんれい」と呼んでいるものが多いようだが、正しくは「みうね」である。

このことは、さきに高知営林局が三嶺と西熊山(一八一五㍍)一帯を保護林に指定した際、この地名をいずれにすべきか問題になったが、地元の祖谷、大栃付近の人々や古老たちは、みな「みうね」といっているので結局「みうね」に統一し、新しく建てた立札などにも「三嶺」(みうね)とかなを振っている。 


白髪山から三嶺を望む


地名は永久不変のものでもなく、住む人や関係する者たちの都合によって変わっていく場合もあろうが、やはり正しい名称は、それとして伝えていくべきであろう。

三嶺から西熊山は古来、山続きの剣山(一九五五㍍)、ジロウギユウ(一九二五㍍)などにくらべて知名の山ではなかった。

一部の登山家や、この山を活用していた地元の人たちの間で知られている程度のものであった。

それが一躍,県下に知られるようになったのは、昭和三十六年一月四日に起った悲しい山の事故によってであった。

それは冬山登山中の高知商業高校の生徒三名が、この三嶺で凍死した事件である。

暖かい南国土佐の冬山で凍死という事故は古来、余り多くはない、この事故以来、三嶺は県民から注目されだした。


西熊山は、三嶺にくらべて更に知名度は低かった。

それが知られたのは見事な「西熊山の山桜」が発見されてからである。

発見者は山脇哲臣氏で、牧野植物園長時代にみつけて世にひろめた。

昔からあった山桜を「みつけた」というのもおかしな話だが、事実がそうだから仕方がない。

なぜみつかったのか。

それは従前三嶺へゆく山道が、西熊山のまん中を通っていたからである。

今の西熊山の登山口から堂床小屋を経て、三嶺に至る山道は、七、八十年から百余年を経た山桜地帯のドまん中を歩くように作られていたから、大樹の山桜の古木の下廻りを歩くので、ふり仰いでも桜の花は見えない。

みえないからみつからなかったのである。



山脇哲臣氏は対岸からそれを見た。

つまり「対岸から見える」場所をみつけたというわけである。

その対岸から見える場所とは、高知営林局が新しくつくった林道のたまものといえば、自然保護の面からみれば皮肉でもある。

それはともかく、山脇哲臣氏はこの林道からま西に当たる、三千㌶に及ぶ西熊山の、日本一の壮大な山桜帯をみつけたのである。 

この山桜は標高千㍍辺りから、千五百~千六百㍍の高地に咲くから、高知市などの平野地帯にくらべると開花が一ケ月もおそく、満開期は四月下旬から五月上旬にかけ、谷から峯へと次第に咲きのぼっていく。

もともとこの林道は、西熊山の天然林開発のために開通したものであるが、山脇氏の山桜の発見や、自然保護運動などもあって、高知営林局が保護林として西熊山一帯に、三嶺をふくめて自然のまま残すことを決断したのである。


その決断を下したのは、当時の高知営林局長公平秀蔵氏で、その功績を忘れてはならない。 

公平局長は西熊山から三嶺にいたる自然林一帯に、「頂上に車の届かぬ四国唯一の山」として残すことに着眼、すでに中腹まで貫道、さらに上に通ずることになっていた西熊山林道をここで打ち切り、奥地開発をあきらめた。

このため、西熊山の三千㌶の山桜自然林をふくめ、三嶺へかけて永久伐採を禁止する天然林が残った。

また、この西熊山・三嶺一帯が現状のまま手つかずに残ることになったその裏には、ずっと長い間、この山一帯の自然保護運動をたゆみなく続けてきた「三嶺を守る会」の努力も見逃すことはできない。

このようにして三嶺と西熊山は美しく残った。

昭和五十六年に行われた学術調査(高知県・高知新聞社)でも、これらの山岳一帯の自然は守られているか、今後はどうあるべきかに重点をおかれたが、現状ではよく保護監理されている。

これには、この山を監理経営する高知営林局のたゆまない努力も見逃してはならない。


林道終点から「さおりが原」、堂床小屋から西熊山登山口に登る区間の歩道はすばらしい。

崖くずれなどで一部危険な個所もあったが、これらもよく整備され、今では安全な山道になった。

美しい渓流には丸木を連ねた橋数本が渡され、歩道沿いの堂床の小屋も宿泊できるように整備されている。

さらに、徳島県側になるが三嶺の山小屋、おかめの小屋と、線から点をつなぐ拠点には適所に山小屋が配置されて申し分ない。 

また山の環境もよろしい。

麓の西熊山入口河原のキャンプ場から、全山にかけて空カンや紙くずなど殆んど見当らぬ。

その点山の美しさでは、中央部の工石山に劣らぬものである。

それは昭和五十六年の学術調査によって、更にこの点が確認された。

奥物部の自然は、「まあ護られている」といってもよいだろう。 

(高知県四国山地学術調査書より・昭和五十九年)




「山脇哲臣山岳写真集」によせて


皇太子殿下と御懇談

昭和五十一年七月・牧野植物園


山脇さんは私の山友達である。

この写真集の仕上げのために私も四国の山々に同行したことがある。

赤石山では朝から凄い雨だったので、あきらめて四合目あたりまでおりたところで空にうす明りがみえはじめた。

山脇さんは重い三種類のカメラを肩に、ひとりでまた引き返えした。

まさにプロの根性である。

山脇さんが十数年かかって撮りためた一万余のネガの中から選りに選ったものがこれである。

山の姿には四季がある。

しかも山の天気は変りやすい。

そこから真実をとらえねばならぬ。

僅か一枚をとるために数年の春秋を狙ったものばかりである。


面河山からみた石鎚山


鋭いカメラ技術に、男の詩情を漂わせ、その上に植物学者というレンズを通して撮ったところに山脇山岳写真の特異性がある。

私は山脇さんのようを山の詩人を山友にもっていることを幸福に思っている。




感想

西熊山の山桜

 

それが知られたのは見事な「西熊山の山桜」が発見されてからである。


これは知らなかった!!

見てみたい!!

と思ったんですが、、、

ググってみると、、、


少なくても昭和60年頃までは山桜はあった、生きていたみたいなんですが

現在は1本の山桜もない天然林になっているそうです。。。


保護された三嶺界隈でもこんな事になるんですね

植物、桜について全く知りませんが鹿の食害とか関係あるんだろうか?

人、登山者の影響だったら、、、

これほど悲しい話はない。。。

現在も人災とも言えるものを見る事がある

山に遊びに行くってだけでも自然に影響は必ずあるんだから

出来るだけ気にして、残して行きたいものです。。。



西熊山林道

検索しても出てきません

現在、天狗塚へのメイン登山口へ行く『西山林道』が出てきます

行き止まり、廃道だからかな?


一度だけ行った事があります

大晦日に鷲尾山岳会の方達と偶然会い

さおりが原で年越しそばご馳走になりました


2021登り納め ~ 山岳会の猛者に紛れて年越しそば | Trekking from Kochi

2021登り納め ~ 山岳会の猛者に紛れて年越しそば | Trekking from Kochi

さおりが原で年越しそば


通行止めです


歩くのは何も問題ありません


途中にあるトンネル、、、


自己責任でね。。。



三嶺を守る会

三嶺の自然を守る会

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現在も活動されております

有難う御座います m(__)m



山脇哲臣

『奥物部の自然保護』を保存していたら

写真家の名前が出てきて記事もあったので調べてみました


山脇哲臣(やまわき てっしん)1918 - 2016 

98歳でお亡くなりになったそうです


全然知りませんでした、、、

牧野植物園の園長さんだったんですね

登山家ではなく植物学者、写真家

まさに牧野富太郎の後継者的な方だったんでしょうか?




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