平成十九年十月十七日。晴天。
旧伊野町仁淀川鉄橋東側の堤防に立って、北方に大きく構えて見える「うばが森」(四四八・九七㍍、四等三角点、点名・毛田)を目指す。この山は平成十八年三月に「仏ケ峠」に登ったときからの懸案の山だったのである。
詳 細 登 山 地 図 |
この日、友人と二人で八時二分に高知市を出発。国道三三号線から同一九四号線に入り、同四十一分、十四代集落で右折して横薮集落を経て、九時二分に仏ケ峠(四二〇㍍)着。十八・三㌔、丁度一時間を要したが、これは伊野町付近の渋滞による遅延である。
準備を整え、九時十五分に登山開始。まずは「うばが森高森展望所」(四三九㍍)を目指す。この道は先に、十四代集落北の登り口から「七色の里・ハイキング・コース」を徒歩で登ったことがあり、道もよく整備されているので歩き易い。同三十分、「三叉路」。これを真っ直ぐ行くと十四代集落北の登り口に通じている。ここで右折して階段道を登ると、同三十四分、「うばが森高森展望所」である。ここまで十九分を要した。
ここから見る伊野町の街並みと仁淀川、さらに遠く太平洋が俯瞰される景色は素晴らしい。ここから南東に下った処に、「養甫尼」の石碑が建立されている。これについては、山名ともからめて後で述べる。
九時四十八分、展望所西中央の入り口からそのまま道のない尾根筋を下って行くと、十時丁度に明瞭な登山道に合流した。ここを左に登ると、ウラジロが密集した道を経て展望所南に通じているものと思われる。右の道を採って南西に進むが、歩き易い。この道は尾根筋の直ぐ南を通っており、左は植林、右は自然林である。
十時十九分、右に樹間からチラチラ見えるピークを見ながら、さらに西に進んでいるとウラジロの道になるが、直ぐ消える。実は、この付近から右の道のない尾根筋に乗り上がるべきだったのである。
やがて三叉路のような所へ来る。ここら辺りはかなり荒れて道筋がはっきりしない。左の道に入ると薮になっており引き返す。今度は右の道を行って見るが、やがて道はなくなり、ここも薮になっている。十時五十四分、前方が透けて見えるがピークらしいものはない。ここで行き過ぎているのに気が付いて元来た道へ引き返す。前に、右に樹間からチラチラ見えたピークが山頂らしいので、道のない直登の登り口を探す。適当に見当を付けて左の山へ分け入る。前方を透かし覗きながら高い処を狙って右にトラバースしながら進んでいくと、十一時二十分、コブに来たが、ここには三角点はない。地図にコンパスを当てて検討してみると、山頂はここから北西の方向にあるらしい。そこで道のない自然林の中を高所を目指して進んで行く。途中、複数の土塁のような石積みに出くわした。
また大きな栗の木が行き先を横断するように倒れ込んでおり、これにキノコが群生している。十一時三十八分、いきなり三角点のある山頂に突っ込んだ。なんと二時間二十三分を要した。因みに、帰路は一時間二十九分で、一時間近くルートを探して彷徨った事になる。
三角点を中心にして南北三㍍、東西二・五㍍位の自然林の広場になっており、展望は全く利かない。早速付近の清掃をする。少し西に行くとヌタ場のような所がある。後で判った事だが、ここからさらに薮を西に行くと展望が開けている場所があったかも知れない。これは帰途、仁淀川左岸の鉄道鉄橋付近から山容を見上げた時に気づいたものである。
十二時三十一分、下山開始。同三十八分にコブ、同五十五分に左折した登山口。ここに木札を樹の枝にぶら下げた。十三時にここを出発して、同二十八分に「うばが森高森展望所」着。同四十二分、「三叉路」、十四時丁度に駐車地に着いた。一時間二十九分を要した。往路は二時間二十三分だった。
反復するが、「うばが森高森展望所」から三十分位南西に進み、そこで右折して一旦コブに出て、そこから南西に行くと山頂である。
帰路、駐車地から一㌔下ると、安芸三郎左衛門の墓地と板卒都婆形五輪塔があり、参詣する。「安芸三郎左衛門は、安芸城主安芸国虎の第二子で七色紙を創製、土佐和紙中興の祖と仰がれ、寛永十一年(一六三四)に七五歳で病没。」などと書いた石碑がある。
さらに、ここを下った横薮集落に「うば屋敷跡」と彫り込んだ石柱がある。屋敷跡辺りに行ってみたが、今は荊棘の中に埋もれて何もない。四百余年も昔に養甫尼が住んでいた屋敷である。土居屋敷ともいう。養甫尼が高野山に赴いた後、焼失したとも伝えられる。
ここから伊野町波川の「波川鎌田城跡」に向う。
国道一九四号線を戻り、仁淀川橋を渡って西に国道三三号線を進むと直ぐ左に「県立農業大学校」への入口があり、これを南に行きながら次第に南西に奥ノ谷集落を通過してどんどん山へ入って行くと、終点に着く。ここから登り小道を五〇㍍行くと、城跡である。
ここは東西一八㍍、南北二一㍍位のほぼ円形をしており、中央には金網で囲ったNHKのアンテナが設置されている。この中央に三等三角点(一七一・五一㍍、点名・玄蕃ノ城)がある。北方に展望が開ける。周囲に巡らした土塁が残存している。西北隅と西南に出入口の跡があり、本丸の下段に二の丸がある。ここは、昭和四十六年に指定された伊野町保護文化財で「波川玄蕃城跡」(史跡)になっている。
「土佐古城略史」の著者・宮地森城は、明治二十七年四月にこの城跡に登り次のように記している。「城は茶屋崎の前面にあり、頗る峻険なり。一ノ丸は東西十三間、南北十七間、塀址周囲を巡り、西北隅と西南に門址あり。又東の中央には乙字形に道開くあり、その内はすべて凹字形なり、その下に一郭あり、南北四間、東西二十七間にして、西腹より北及び東に廻れり
」
「うばが森」には、紙業伝説と安芸三郎左衛門、養甫尼の言い伝えが残っている。紙業伝説と安芸三郎左衛門については、「成山峠の怪火」、「紙業伝説の仏ケ峠」に詳しく書いたので割愛する。
戦国時代の末期の頃、土佐の豪族長宗我部元親の妹養甫(陽甫)は、波川玄蕃清宗の室となる。姉二人も豪族本山氏と池氏に嫁ぎ、いずれも政略結婚と思われる。玄蕃は波川鎌田城主でここは波川累代の居城であった。波川、鎌田、大内、小野、成山を領していた。蘇我入鹿の裔といわれる。三男があり、彌次郎、虎王、千味。元亀二年(一五七一)に元親は佐川を攻めるが、玄蕃他の数武将皆質を出して下る。天正四年(一五七六)に元親が山地城を剥奪したのを玄蕃が怒り、日下村蔓原城に篭り謀反し、檄を四方に飛ばすが応ずる者はない。玄蕃は剃髪して天正八年に高野山に向う途中、阿波海部で捕縛され、香宗我部親泰を介して罪を謝すが元親これを許さず自裁せしめる。玄蕃の屍は波川村民阿波へ迎え来て、法願寺山に葬ったという。毎年七月二十八日庶民これを祭る。真姓院殿和光泰庵大居士の戒名。
その後、元親との戦いで、彌次郎は十字槍を携えて大古落の敵を破り、進んで十四代に戦い、一度退いて櫓に登るが、将士多く死するを見て、幕を庭中に巡らし、水を桶に満たして、その後櫓を下り門を開いて敵を誘い挑み戦う。刀熱すれば桶で洗い、又出で戦う。力尽きるに及んで幕に入り自殺する。
虎王は十歳、逃れて大内の八十瀬を渡り、流れて淵に入り溺死する。大内の人、これを埋葬するという。
千味は幼少、母養甫これを懐にして成山に逃れるが、幾ばくもなく夭折す。これにて波川家は断絶した。戦死の諸士を葬る処を塚畑という。この地後年髣髴として数百の兵が相戦うを見、或いは兵馬駆逐の声を聞くことがあったという。
母は髪を削り尼となり、慶寿養甫と称す。うば屋敷に住み、子等を供養するため成山に浄福寺を建立するが、今はない。元親は養甫に百石を与える。
成山の里人は養甫尼のために鎌田城前の仁淀川の小石を持ち帰り、養甫尼はこれを袂に入れて、ここ、うばが森で一族の供養をしていたという。
また養甫尼は、安芸国虎の次男である安芸三郎左衛門と叔姪の間柄に当っていたので、三郎左衛門は招かれてこの地の横薮を仮居に定めた。
一日伊豫国宇和郡日向村の者で新之丞という遍路がやって来て三郎左衛門の家に泊めてもらったが、色々話の中で新之丞が朱善紙の製法を知っていることを知り、その製法の伝授をうけて、土佐七色紙を創りだした。この紙は山内一豊から徳川幕府に献上され、以後伊野は紙の町として繁栄した。
そして平成十年、養甫尼の袂石の伝承に基づいて、四百余年間うばが森で眠っていた袂石を発見したというので、碑が建立されている。
養甫尼の運命は苛酷である。長宗我部元親の妹でありながら、夫が元親に自裁を強いられ、しかも子の男子三人まで元親との戦いの中で亡くす。戦国の習いとは云いながら身にふりかかる試練に敢然たち向かった烈女というべきか。後、高野山へ赴きそこで生涯を閉じる。享年は不明である。
なお、「うばが森」に漢字をあてるなら、上に述べてきた内容からして、「姥が森」が適当と思われる。