詳 細 登 山 地 図 |
九時、高知市出発。九時四十五分、十四代集落北の登り口(標高六〇㍍)着。道標に「成山(七色の里・ハイキング・コース)」とある。
ここからやや狭い一車線の車道を五・三㌔行けば横藪集落を経て一気に峠へ行くことができる。しかしそれではあまりに味気ないのでここから古山道を歩くことにした。
九時五十分登山開始。この山道は、その殆どが尾根道の小径で、よく踏みならされて歩き易く、延々と登りが続くのが特徴的である。
あちこちの山桜が三分咲き、小花のツツジが満開になったりして楽しい道中である。峠近くの「うばが森」(四七〇㍍)付近の道が三㍍ぐらいに亘って谷側に崩落しているのでわずかの取っ掛かりを足場にして注意深く横断する。この頃から雪がちらちらして風が急に強くなって寒くなった。持参のジャンパーを着込む。
十一時四十分、峠に(標高四二〇㍍)着く。一時間五十分を要した。地元の人の話では、足の速い人は四十五分で歩くと云っていたが、この落差には聊かがっかりした。
この峠は、「成山和紙の里公園」と喧伝するだけあって、よく整備されている。広大な駐車場、あずまや風のトイレは水洗で障害者用まで完備、清浄な水道も利用できる。あちこちに植樹されているソメイヨシノが丁度満開だった。
ここには、有名な「紙業界の恩人、新之丞君碑」と彫られた石碑がある(新之丞伝説は下の参考に詳述)。
大正五年に建立されて九十年を経過しているため苔むしており、裏側に刻み込まれた字は殆ど判読できないが、記録によれば以下の通りである。
伝説云新之丞君は伊豫国宇和郡日向村人慶長初年頃成山村に来り抄紙法を伝ふ後帰国の途次安芸三郎左衛門之を坂要に要し斬殺すと
蓋し抄紙法の秘術を保ち村民の利益を保護せんとする戦国時代の風習にして然る後土佐の製紙業が長足の進歩発展を見るに至りしは君の尽力與て力あり此會の同情君の一身に集り春秋の香花永へに絶えず追懐の至誠凝て記念碑と化し君の功績を不朽に伝ふ
大正五年九月 萱中雄幸 撰
安芸三郎左衛門家友の墓碑は、峠から車道を東に降り下りた所にるある。
この峠からは、伊野町、仁淀川、高知市が俯瞰される。車で来た二人連れに出遭う。
十三時三十分下山開始。途中、四七〇㍍のピークにある「うばが森」の展望所に立ち寄る。ここでもやはり眼下に伊野町、仁淀川、高知市が展望され、北方に石鎚連峰が遠望される。
十三時四十五分に「うばが森」分岐を出発して下山にかかる。しばらく行くと左方に陰集落の畑が見られる処で、来た道筋の重複を避け、道のない段々畑を藪漕ぎで下り降り、狭い車道に出て陰集落を通過してどんどん南に歩く。ところどころに脇道があるが、これを近道と思って入るとこれらはいずれも畑への道である。どこまでも車道を歩く。
十五時五分、車を置いた出発地に着く。一時間四十五分を要した。
この峠に通じる古山道を歩く人は多くはないだろう。車で五・三㌔の車道を一気に駆け抜ければ、いきなりだからである。しかし、古人が草鞋履きで往復した山道を歩くのは歴史を感じ、少し長いが楽しく感慨深い道中だった。
(平成十八年三月記)
参考 成山峠の怪火
吾川郡神谷村(現・いの町)の成山峠は一名仏ケ峠(ほとけがとう)とよばれる。伊野町から十町ばかり北へ行った処であるが、昔はこの峠を夜分眺めると提灯ほどの怪火が数十も並んで見えたことがあると伝えられ、ここでは三人までも不慮死をしたといわれている。成山は紙所で著聞している。
その起源はといえば、昔、永録十二年(一五六九)八月十日、土佐七豪族の一人安芸備後守国虎は長宗我部元親のために攻められて遂に居城安芸城は陥落し、国虎は怨みを飲んで自裁した。その時長男千壽丸と二男三郎左衛門とは家臣に助けられて遠く阿波の国に難をさけ数年の間その地に幽栖した。天正八年(一五八〇)になって長宗我部元親の妹婿にあたる高岡郡波川の城主波川玄蕃允清宗はひそかに一條村内政と謀を通じて長宗我部に叛こうとしたが、事が発覚して、やむなく自殺して果てた。
この清宗の妻はその後剃髪して、慶将院養甫尼と呼び、この成山村に隠居していた。この養甫尼は安芸三郎左衛門の叔姪の間柄に当っていたので、三郎左衛門は尼に招かれて土佐に帰りこの地の横薮を仮居に定めた。
一日伊豫国宇和郡日向村の者で新之丞という遍路がやって来て三郎左衛門の家に泊めてもらったが、色々話の中で新之丞が朱善紙の製法を知っていることを知り、その製法の伝授をうけたが、成山地方には製紙の原料が豊富であったから、養甫尼と三郎左衛門はこの地に製紙業を広めた。
これが土佐紙の起源である。製紙の秘技を受けた三郎左衛門は薪之丞を厚く遇したが、ただ一つの心の奥にある不純な気持ちが頭をもたげていた。それは新之丞が三郎左衛門に伝授してくれた秘技をまた他所で同様に伝授するのではなかろうか?もし他人がその秘技を会得したなら成山の製紙が独占的なものとなることは出来ない。何とかしてこの秘法を他人に知らせたくない。
どうしたものかと思案の結果は、いっそ一思いに新之丞の生命を絶つことが唯一の方策であると考えた。三郎左衛門の心は決った。
新之丞は永い逗留の挨拶を述べて三郎左衛門の家を出て再び遍路の旅に出たが、もはや躇躊すべきではないと三郎左衛門は一刀を帯して成山峠に新之丞をまち受け、おやと驚く新之丞を抜き討にしてその生命を奪った。
この惨酷な出来事によって成山の製紙は土佐独特の秘技となり、慶長六年(一六〇一)山内家入国の際にも三郎左衛門は自家製造の抄紙を献上して謁見を許され、製紙業の詳細を言上して一豊公の賞に預かり即座に成山村の田地一町歩と伐畑全部を褒賜せられた。一豊公は三郎左衛門からの献上紙を更に将軍に献上してから、三郎左衛門は御用紙方を命ぜられ土佐国一円の製紙の総監督になった。
成山の七色紙は青、紫、柿、桃、柑、萌黄、朱善紙で、その製法は全く極秘に付せられ、他国人は勿論、工員の親戚以外の者も決して抄紙工場内に出入することを許さなかった。
新之丞の事があって以来、成山峠には変死人が幾たりかでき、すべて彼の霊が崇るという噂が伝わり、その峠を仏ケ峠と称したが、時々里人はここに怪火を見たという。
(土佐伝説全集より、昭和二十三年)