吾川郡神谷村(現・いの町)の成山峠は一名仏峠とよばれる。伊野町から十町ばかり北へ行った所であるが、昔はこの峠を夜分眺めると提灯ほどの怪火が数十も並んで見えたことがあると伝えられ、ここでは三人までも不慮死をしたといわれている。成山は紙所で著聞している。
その起源はといえば、昔、永録十二年(一五六九)八月十日、土佐七豪族の一人安芸備後守国虎は長宗我部元親のために攻められて遂に居城安芸城は陥落し、国虎は怨みを飲んで自裁した。その時長男千壽丸と二男三郎左衛門とは家臣に助けられて遠く阿波の国に難をさけ数年の間その地に幽栖した。天正八年(一五八〇)になって長宗我部元親の妹婿にあたる高岡郡波川の城主波川玄蕃允清宗はひそかに一條村内政と謀を通じて長宗我部に叛こうとしたが、事が発覚して、やむなく自殺して果てた。この清宗の妻はその後剃髪して、慶将院養甫尼と呼び、この成山村に隠居していた。この養甫尼は安芸三郎左衛門の叔姪の間柄に当っていたので、三郎左衛門は尼に招かれて土佐に帰りこの地の横薮を仮居に定めた。
一日伊予国宇和郡日向村の者で新之丞という遍路がやって来て三郎左衛門の家に泊めてもらったが、色々話の中で新之丞が朱善紙の製法を知っていることを知り、その製法の伝授をうけたが、成山地方には製紙の原料が豊富であったから、養甫尼と三郎左衛門はこの地に製紙業を広めた。これが土佐紙の起源である。製紙の秘技を受けた三郎左衛門は薪之丞を厚く遇したが、ただ一つの心の奥にある不純な気持ちが頭をもたげていた。それは新之丞が三郎左衛門に伝授してくれた秘技をまた他所で同様に伝授するのではなかろうか?もし他人がその秘技を会得したなら成山の製紙が独占的なものとなることは出来ない。何とかしてこの秘法を他人に知らせたくない。どうしたものかと思案の結果は、いっそ一思いに新之丞の生命を絶つことが唯一の方策であると考えた。三郎左衛門の心は決った。
新之丞は永い逗留の挨拶を述べて三郎左衛門の家を出て再び遍路の旅に出たが、もはや躇躊すべきではないと三郎左衛門は一刀を帯して成山峠に新之丞をまち受け、おやと驚く新之丞を抜き討にしてその生命を奪った。
この惨酷な出来事によって成山の製紙は土佐独特の秘技となり、慶長六年(一六〇一)山内家入国の際にも三郎左衛門は自家製造の抄紙を献上して謁見を許され、製紙業の詳細を言上して一豊公の賞に預かり即座に成山村の田地一町歩と伐畑全部を褒賜せられた。一豊公は三郎左衛門からの献上紙を更に将軍に献上してから、三郎左衛門は御用紙方を命ぜられ土佐国一円の製紙の総監督になった。成山の七色紙は青、紫、柿、桃、柑、萌黄、朱善紙で、その製法は全く極秘に付せられ、他国人は勿論、工員の親戚以外の者も決して抄紙工場内に出入することを許さなかった。新之丞の事があって以来、成山峠には変死人が幾たりかでき、すべて彼の霊が崇るという噂が伝わり、その峠を仏峠と称したが、時々里人はここに怪火を見たという。
(参考)
この伝説の主人公のために大正年間に「紙業界之恩人新之丞君碑」が成山峠に建てられた。その文に曰く、(今では擦れて判読できない)
伝説云新之丞君は伊予国宇和郡日向村人慶長初年頃成山村に来り抄紙法を伝ふ後帰国の途次安芸三郎左衛門之を坂要に要し斬殺すと。
蓋し抄紙法の秘術を保ち村民の利益を保護せんとする戦国時代の風習にして然る後土佐の製紙業が長足の進歩発展を見るに至りしは君の尽力與て力あり此会の同情君の一身に集り春秋の香花永へに絶えず追懐の至誠凝て記念碑と化し君の功績を不朽に伝ふ
大正五年九月 萱 中 雄 幸 撰
紙 業 伝 説 の 仏 ケ 峠
(土佐伝説全集より、昭和二十三年)