平成十九年三月十八日、快晴、寒波襲来で寒し。
友人と二人で旧香我美町最奥地の安芸市との境界の秘境で結跏趺坐して睨みを利かす「次郎太森」(八五二・二㍍)を目指す。一名、「三方山」ともいうが、大荒れの幽栖する山で、一時間に及ぶ道のない尾根筋の厳しい直登は、今まで経験をしたこともない異質の厳しさだった。
詳 細 登 山 地 図 |
この山への登頂ルートを要約すると、先ず、渓谷沿いの長い山道を歩いた後、登りに入る。直ぐに左(西)の谷をトラバースして隣の支尾根に乗り換え、これを直登して稜線に躍り上がり北西から山頂に入るのである。
山 頂 か ら 1・1 ㌔ 隔 て た 高 度 6 0 0 ㍍ か ら 東 を 望む
( カ シ バ ー ド 3 D )
この日、七時五十八分、高知市出発。国道五五号線を東に走り、旧夜須町坪井で左折して香宗川に沿って県道二二一号・奥西川岸本線を北東に進む。この道は各所で分岐があって間違い易いが、前に「熊王山」へ行った時、車道の選択に苦労したので今度は順調に走れる。
八時五十五分、千舞温泉、九時一分別役城跡、同十三分に奈良橋を通過して、同二十四分に舞川公民館がある四辻に来る。ここを右折した後、直ぐに左折して狭い県道二九号・安芸物部線を南下して行く。同二十七分「和田の谷橋」を渡り、ここから舗装がない作業道を五〇〇㍍行った広場に駐車(五〇・三㌔、標高・四一〇㍍)。九時三十分、一時間三十二分を要した。和田の谷集落は一軒の家を残して廃村になっている。
準備を整え、九時三十九分、出発。山道とほぼ同じ高さの美しい渓谷を右に見ながら、植林の中の荒れた道を進む。廃屋がある。昔ここら辺りに銅山があったというが、特定できない。山道は次第に狭くなってさらに荒れてくる。このように緩やかな登り道を延々四十七分歩くが、途中、何ヶ所かの危険な路肩崩壊、道の崩落がある。
次第に渓谷を下に見るよう高度を上げていく、十時二十六分、「渓谷分れ」に来てここから本格的な登りに入る(四九〇㍍)。
同三十二分に四畳半位の「おどり場」のような所へ来る。ここをさらに道なりに進むと、直ぐに三叉路のような所へ来る。左折して北方に植林の谷をトラバースしながら登って行く。この山はその殆どが植林されているが、枝打ちや間伐作業がきちんと励行されている。
注、帰路、三叉路を右に行って見た。しばらくして前方に谷があるが、これを避けて左に支尾根のような急坂を登って行くと、前方に透けた空が見えた。これをさらに直登すれば山頂南の稜線に達するのではないかと思われた。
十時四十五分、直ぐ上の支尾根道にとび上がる。感じのよい道を進んでいると、十一時丁度、再び三叉路に来るが、少し左に巻いて同系の支尾根道へ上がり、東北東に進む。左が自然林、右が植林になっている。
注、帰路、三叉路を右に行って見た。谷をトラバースするように進むが、途中、崩壊している所がある。その向うに谷があるが、これを登るか、左の支尾根のような急坂を登れば往路の支尾根筋に合流するのではないかと思われた。
露岩がある所では左の植林の方に避けるが、そうすると掴まる雑木がなくなるのでずるずると滑る。ようやく左上空に透けた稜線の鞍部が見えて来て、これを目標にしながらも右寄りの尾根筋を登る。ようやく鞍部がはっきり見え出した所で、植林の中をトラバースしながらその方向に進む。
十二時五分、「稜線鞍部」に飛び出た(七七〇㍍)。直登を開始して一時間五分を要した。
ここの急登は、今まで登った山の中でも最も厳しいもので、例えば「東三森山」の直登もそうだったが、しかしその道ははっきりして紛らわしくなく、しかも木の根が滑り止めになっているうえに掴まる立木があったので、ここよりは登り易かったのである。
稜線の北側は植林が皆伐されて、裸の山腹が急降下しており、奈落を思わせるその様相に足が震えて後じさりをするほどである。上空は広角の展望が開け、北東に雪を頂いた矢筈山、綱附森方面が見える。北方には鉢ケ森、高板山等の山が連なっている。地面には霜柱が立っており、風が強く寒い。
ここから道筋のはっきりした稜線を南東に進む。十二時二十分、コブに来て、さらに進むと植林の谷をトラバースして再び尾根に上がる。ここで右折(南)して前方に見えるピークを登り切ると、同三十四分に三等三角点がある山頂に着く。駐車地から二時間五十五分、「渓谷分れ」から二時間八分、「稜線鞍部」から二十九分を要した。
頂上は東西二㍍位、南北に山道が走る広場になっている。山頂の西面は植林が迫り、東面は自然林で樫、アセビ、松等が多い。この付近には特異な植生が見られるという。北東から南東方面に展望が開け、直ぐ南東に「畑山」(九六六㍍)、北東に八五八㍍のピークが見える。
昼食を済ませ、少し時間があるので、北東に連なる尾根筋を歩いてみる。十三分で、「八六〇㍍」のピークに着く。伐採した北面を中心にして広角の展望が開け、下方に弓木墜道付近の車道が見える。ここからさらに東方に尾根道がありその先には「八五〇㍍」のピークが望まれるが、ここから引き返す。
十四時三分、往路を辿って下山開始。同二十六分、「稜線鞍部」。ここから再び厳しい尾根筋の直降に入る。要所に目印を付けていたので、下りは少しは楽だろうと思っていたが、ずるずると滑落するので注意深く降下する。直登を開始した所まで四十一分、「渓谷分れ」まで一時間三十九分、駐車地まで二時間二十分を要した。
私共が登ったルート以外にも複数のルートがあるように思われる。渓谷沿いに二ケ所登山口のような所があったし(赤と黄のテープを付けた)、登りに入っても二ケ所の分岐があったが、これらは何れも山頂に通じているように思えた。私共は、山頂北西の稜線に躍り上がったが、山頂南の稜線に出るルートもあるのではないかと思う。この山頂南のルートには随所に目印が付けられていたのが、その証左ではあるまいか?いずれにしても、この山の登頂には定まったルートはないように思える。思うままに、ルート作りをしながら登る山ではないかと…
正に秘境で結跏趺坐して周囲を睥睨している特異な山と言うことができる。
(平成十九年三月記)
( 参 考 ) 別 役 城 |
帰路、「和田の谷」の駐車地から三十分位戻った所に「別役(べっちゃく)城址」があり、ここに立ち寄る。このような最奥地の山中に城が、しかも複数あったとは、駭きである。
城入口の立札に以下の記述がある。
「戦国初期奥西川別役の豪族別役三吉郎在原義重の居城址。三方を谷川に囲まれた要塞の地で、遺構は竃戸神社の北側、東側に土塁が残っており、ここに防御投石用の石の集積を見る」(昭和五十三年・香我美町指定史跡)。
また、「土佐古城略史」(昭和十年)によれば以下の通り。
東 川 別 役 城 |
城主、別役三吉郎。東川村別役五百石を領す。
元親公時代の城持書附に曰く、元親公より知行四百廿石拝知、東川、和食、馬ノ上、西川、夜須、四ケ村を分知す。
別役氏家譜に曰く、姓は在原、別役を以て氏とす、七左衛門在原重忠は奥西川別役城、中西川上城南城両城の主にして。別当領別役村五百廿石。
森城(著者)按ずるに、中西川上城は蓋し別役城を指し、南城は大森城を指すものの如し、又両城は三城の誤りか。
重忠七郎兵衛は勝久を生む、勝久は枝山小松氏の養子となり、三郎左衛門は家を嗣ぎ、秦元親に仕え諸村に於て相秩(禄)す、天正十五年(一五八七)十二月十二日信親に従いて豊後に戦死す(秀吉、九州平定の時)、三吉郎義重が家を嗣ぎ、秦氏亡び城を出て閑居す、貞六郎は父義重と共に閑居し、後帰農す、貞六郎は家を五郎左衛門八之丞に伝う、八之丞は山南村久保田に転居し、又吉原村に移り染工を業とす、次郎兵衛が家を嗣ぎ、嘉伝次、惣右衛門に伝う、惣右衛門は野市に移住し、帰農す、其子の久米平は農を以て中興し、政次、益蔵に伝う。或書に曰く、三吉郎は山内宗伝御就封の時猶存命せり。
正延を過ぎ蜿蜒曲所、山に沿い渓に循(沿)う十七八町にして別役村に抵(至)り、別役城墟に躋(登)る、牙城三畝ばかり、樹木四邊を囲繞し.其の中に八幡宮の社あり、神社の下に大門の址あり、又今の民家のある所は、古の土居跡なりと、其の他観る所なし。
土人曰く、別当三吉郎嘗て澤の城主某と隙(不和)あり、闘て死す。又曰く、或説に曰く、三吉郎一日澤氏を過る(咎める)、澤某は三吉郎及び徒者六人を酖殺(毒殺)し、之を澤に葬る、之を七人墓と称すと、皆石碣(碑)を以て墓標とす、今は荊楚の中に没すと云う。
森城按ずるに、三吉郎の墓は奥西川にあり、三吉郎が澤氏の為めに殺され且つ澤に葬るの説は信し難し。
奥 西 川 城 |
城主、別役左衛門、或人曰く、別役吉三郎。
森城按ずるに、左衛門は蓋三郎左衛門の誤りなり.東川別役城、同氏の系図を見るべし。
余嘗て奥西川に陪遊し別役部落に抵(至)る。人家七八戸あり、佐竹氏の門前より左側の田畑に上る七八間、崖下に自然石の墓碣(碑)あり、正面に別役三吉郎墓、左傍に源の字あり、他は磨滅して読む可からず、其前崖一帯の渓流を隔て、兀々たる童山(禿山)高く雲際に聳ゆるあり、之を奥西川の城墟とす、土人之を嶽城と称す、隍(堀)跡の存するあり。
中 西 川 大 森 城 |
奥西川の堺にあり。
城主詳ならず。
奥西川より渓流に沿うて下り、安場坂を越へ中西川に到る。安場の南檜皮に古城あり、壕跡井(整)然として今猶見るべしと雖も、山高く路絶え躋(登)るべからずと云う。城主詳かならず、蓋し三吉郎の支城、南の城と云うもの是れなり。