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吉野川最奥地の土俗

 四国三郎の異名をもつ吉野川は、全長およそ五十里、四国第一の長流である。河口に近い徳島駅から、汽車によって川の南岸を七十八㌔遡れば、三縄に着く。ここから自動車を駆って大歩危、小歩危の峡谷美を賞しつつ、再び大田口から汽車に乗り、大杉駅に至り下車、三度自動車にて本山谷に入る。本山谷は別乾坤をなし、吉野川本流の流れる谷、本山町はこの谷の中心地である。更らに水源地までに、吉野、森.地蔵寺、大川、本川等の諸村を指える。

 今私が記述せんとするのは、吉野川最奥地たる土佐の大川村、本川村等の土俗についてである。この地方は、石鎚山脈の南側で、筒上、手箱、瓶、伊豫富士、寒風、笹、冠、平家平、三ツ森、大座禮、東光森、稲叢等千五百㍍以上、二千㍍に近い高山が屏風式に連互して.自然の大城壁を作っている。この地勢から考えても、交通の不便は、直ちに推察されるであろう。昨今では荷車や自転車の通ずる道が、部落から部落へ開通しつつあるが、これとて幹線のみで、まだ前途遼遠だ。瀬戸内海側へ出るには、どうしても千五百前後の峠を越えねばならぬ。



寺 川 鎌 薮 か ら 石 鎚 連 峰



「寺川郷談」の著者は、『此本川の流(吉野川本流)、信州木曾川に似たり、往還の危事、木曾に十倍せり、木曾にかけはしあれど、さほどあやうからず。道もなく、誠に国の要害は蜀の桟道も及ぶまじ、断崖、峻谷、鳥も翔りがたく、岩のはら、丸木の一本橋、「からかひ」などと云うて、一本木に足がかりを刻み、或ははじめの如く、横木をゆい付、蔦に取付き、木の根をつたい、岩角をトリグサにして、往来する所、いくらも多し。以下略』と云っているが、今でも伊豫西條から、川来須及鎌藪越(一五九三の峠)を経て、本川村の寺川部落に行く道には、そのままの処がある。即ちこれらの道は、二百年前も、今も殆んど変りがない。こんな所だから、他地方との交通を遮断し、祖先からの伝統と、その後自らが生んだ習俗をも破られ損なるることなく、今日まで維持してきたのである。 

現在(昭和十年)大川村は人口約三千四百、井ノ川、小麦畝、南ノ山等十余部落があり、本川村は、人口約千七百四十、寺川、越裏門、高藪、長澤、桑瀬等十一部落がある。この大川、本川地方(昔の本川郷上分、仝下分、森郷の一部)の古い土俗を知りたい人のために、好個の文献がある。それは「寺川郷談」といい、宝暦二年(一七五二)に記された面白いもので、これの著者・青木繁則は寺川郷に永らく住んで、実地をよく調べている。 

私も一、二回山登りのついでに、この地方をゆっくり歩いたが、該書に記されたような、古風俗の片影が今も残存している。ここでは、嫁取りやその他を引用して見る。




『此郷にて娘をよめに貰うときは、先ず仲人袋に小豆二升入、うち担ぎ、さて向所へ参り申けるは、おぢうば(父母)も、あひよら(兄)も、しんばあ聞いてたもれ、こちの女郎べを、越裏門のさる松がとぎにくれてんやといえば、夫は成程お心入恭、さる松も筒井のちやきちやき、山畑もよくじまう、婿に取ておろかはない、うらとても伊東の筋めに悪い事もなかれど、今のうちは、ばあがかゝり子、兄めにとぎやというてやらぬ内は、得こそやることはなるまい、そう心得、先此袋の祝儀ものは取ていんで(帰って)たもれ、いふ時、いやいや何分いゝかゝり、夫ではならぬと言て、かの袋を置て帰らんとすれば、やれやれまづ取てごさざれ、こんたのおばにも、鎌薮のいとこにも、談合してみふと、言を聞き入ず、袋を投込帰へれば、後より追はへ、お先とつてござれと云う、いやならぬ、呉れねば担いでいくと言て引あう、遂に袋を置帰へれば、女郎べをくるゝ也、何分人頼して戻せばくれぬ也、袋の小豆を取納め置、やる筈になれば、女郎べを呼出して、三度いただき取置、さて日柄を見合ゆいれをやる、三日をきらう、ひき茶を贈る、紙に包へだを取、九へた、七へた、五へた也、是ゆいれ第一の品にて、貧福共に大切にする也。其の上を水引にてくくる。男むすび、女むすびなどと云、さて男の方にては親戚を残らず呼集め、今日は日柄よく茶の口をきり、何れも悦祝いて飲ける、其の茶碗の名をづんきりと云、いざいざ、づん切のかわむかしやれと云う、ふた押し明け、豆腐、田楽を茶請にしてひき茶二服飲みけり、此茶を一家残らず飲み、是にていよいよ和談して、万端調う也、此外の事は貧福にしたがう、誠に殊勝にこそ、追て婿入なり、其時は親兄弟は云に及ばず、伯父、おば、いとこも、はとこも、九族残らず引具し、樽を負ふて行もあり、あめごと云魚をすぼにして行も有。婿殿は鉄砲をかたぎ道すがらどんどんと幾つも打はなし、是は道の悪魔払と云て打つ也。又男の方には、今日は婿入ぞ若い衆はやしてたもれとて、若い男を数々道へ出し、婿来れば婿殿々々見事々々、鉄砲がよう鳴って鉄砲がよう鳴ってさきの女郎べが嬉しかろ、鼻が高いは、どへこけてさらかぶを打みしやるな、さらかぶもはやぽんから用の有る所ぞだんぢにせよなどと、口々様々に云はやしけり。扨おち付とて、坪へむしろ敷ならべ、婿をはじめ両家の一門残らず集り、芋田楽肴し、おやごき五ツ六ツ出し、嫁もすぐに酌をとり、はらふくるゝ程うたひて内へ入る事也。内にては福者は長柄の蝶子にて、稗餅のそうに、いも吸物にて木盃を出しける。長柄は今物にあらず、随分黒くふすぼり甚久敷もの也。扨事済み婿帰る時は、又右の若者共大難所の廻り道もならぬ所へ、竹の節をぬき小石・砂を入、二重三重に竹垣をして結びふさぎ置、此処へ婿来かゝりければ、婿脇差をぬき垣を切破り通る也。此時彼はやして山上に数々と遠見し、見事切れて々々々々々ひかるは々々々々、はづみがよいぞと云も有り、庖丁ではないか錆が見えるぞ、女郎べが来たら砥いでもらへと云も有。切れば褒め、切されば悪口してどつと笑けり。此垣を脇から外の者切破る事ならず。あら道明けとて婿がひとり切破る也。竹の節をぬき石砂を入置ければ脇差をいためける。珍しき戯れ也。津野山郷にも垣をして、か様の事ありと』


死者の葬式については、『近辺に寺一宇なく、七八里へだたり、ふるき村と云所に壇那寺あり、三方殊に難所故、大体の人は死するや、直ちに葬り置、重而五六年も過ぎ、次でを見合、作物もよき年、郷中も催合、寺僧を請じ、家々より我親、祖父、祖母の戒名を一度に付でもらう也。布施も村中取集め寺に送る。云々』と記しているが、この風習は、阿波の祖谷山村も大体同じである。


地勢が隠遁に好都合の故か、敗残者の子孫が少くないらしい。『西は、松山御領、北は西條御領井に御蔵所へ鄰(隣)る。四国第一の深山幽谷也、昔は土佐にもあらず、伊豫へもつかず、川水の悉く阿州へ流るゝと云えども、阿波へも党せず、筒井、和田、伊東、山中、大薮の五党此郷をわけて司るとなん』等記されているが、筒井は、かの大和龍門城主、筒井順慶の末裔であるといい、最近、大川村井野川部落の筒井家には、順慶に宛てた信長の朱印状が保存されていることが分ったと新聞紙は報じている。この家の当主は順慶より十四代目であり、尚、仝村南野山(みのやま)にも順慶の正統が現住し、古い太刀、鎧等を持っているという。大川村に隣接した森村の溜井には、眞田幸村の後裔が私塾を開いていたことがあると、昨年の高知新聞、土陽新聞が報じている。 

又此の本山谷は、新田氏の残党とも関係があると云う研究家もあるが、いずれ此等の研究調査をなす時節もあろうと思っている。

(「石鎚連峰と面河渓」・昭和十年、「高知県史」・昭和四十三年)