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氏神参道の小式ヶ台

平成十八年五月二十一日、晴。

友人と三人で吾北村の小式ヶ台(こしきがだい、九四九・八〇㍍)を目指す。点名は古敷ヶ台で、字名に由来する。




詳 細 登 山 地 図

赤 旗 が 小 式 ヶ 台


詳 細 図

九時、高知市出発。国道三三号線から国道一九四号線に入り、九時四十五分に出来地、十時に南越農道(なごし・一一〇㍍)に入る。道は一車線だが広く走りやすい。同十五分、南越集落の人家の車庫に着き、ここで行き止まりになる。ここに直ぐ登山口(五七〇㍍)がある。少し戻った広場に駐車。


 登 山 口

十時三十分登山開始。ここから小式ヶ台の全容が望見されるが、山の大半が植林されている。同三十二分「南越山荘」を右手に見ながら進む。空家があちこちで見える。屋根が抜け落ち、箪笥、洗濯機、冷蔵庫、蚕棚、炊事場の炊飯器、瓦斯コンロ、鍋類等がそのまま埃だらけで残されているのは異様な光景。そういえば、山間部の集落には通常棚田があるのだが、ここにはなかったように思う。

この集落は、昔には料亭があったほどの賑わいで裕福だったという。初老の女性によると、ここへ嫁に来たときは二十六戸の家があったが、昭和五十年の災害で山を降りた人が多く、現在は九軒が残っているという。一時は四十戸を越えていたらしい。なぜかここに馬乗りの名人がいて、当時、山田堰の石積を馬で渡りきってやんやの喝采を受けたという。

登山道は実によく整備されている。ヤマアジサイが此処かしこで満開。ツツジは少なく、全行程で三~四本を見たに過ぎない。





十一時十分、延命地蔵様に出会う。これには「邑々安全 天保十一年(注、一八四〇年)立之 ゑんめい地蔵」と彫られている。

 


 神 社 の 並 木 道

十一時十五分、六社神社の門に到着。




鳥居を潜ると両側に古木の並木があって、この奥に拝殿と神殿がある。
 祭神は、
 天津児屋根命 太玉命 天手力男命 栲幡比賣命 豊石窓命 櫛石窓命とか
 イササギのミコト. イザナギのミコト. ニニギのミコト. オオミヤヒメのミコト. オオアナムチのミコト. シオヅオキナのミコトとか
 底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ)底筒之男命(ソコヅツノオノミコト)中筒之男命(ナカヅツノオノミコト)上筒之男命(ウワヅツノオノミコト)とか
 他にも諸説があってよくわからない。どうしてこんなに多いのか研究してみると面白そうだ。だが、肝腎のここの祭神は一体どなた方なのか?それがわからない。
 手前に拝殿があり、その奥に神殿があるが、神殿には容易には近づけない。


 六 社 神 社 の 拝 殿 、 こ の 奥 に 神 殿

拝殿の中を拝観できたが、壁に四枚の大きい絵馬が飾られており、いずれも明治時代に奉献されたものである。集落の人達の氏神様にこめる信仰の厚さと当時の繁栄振りが想像されるのである。




十一時三十七分、CATV共聴アンテナが立っている尾根筋に出た。ここで電波を受信し、ケーブルを通じて配信しているのである。これまで登山道の脇に間隔を空けて中継点用の円柱が埋め込まれていたのだが、これでその存在の納得がいった。

十一時四十分、尾根の休場峠(七五〇㍍)着、この道は成川、花ノ木に通じているが、その先の道の状況はわからない。



休 場 峠

ここから山頂まで尾根筋の直登になるが、整備された道はここまでである。踏み跡がわかる程度のやや荒れた道になる。十一時五十分、大岩が左側に突き出ているが、木々が邪魔をして展望は利かない。同五十五分に第二の岩場、正午に第三の岩場に来るがいずれも展望はよくない。いつのまにか左が植林、右が自然林となったりした。

 

十二時十五分、日当りのよい檜の植林の中に二等三角点がある山頂があった。一時間四十五分を要したが、途中あちこちで遊んだので、実際には一時間程度の行程であろう。万歩計は三七五〇歩を指していた。展望は全く利かない。つまりここまでこの山ばかりを見ながら登って来たことになる。

 

見ると向うの方から、チェンソーを持った中年の男性が近づいて来た。この山を管理している杣人であった。この方にいろいろ話を聞いた。

ここら辺りは集落の入会林で、四十年位前に植林の補助を受け、山頂まで植林をしたという。地形的に風圧を受けやすく、土が柔らかく深いので、とくに昨年の台風で倒木したり傾いたりしたそうである。この付近は漢方の草本が豊富なので採集に来たのかと思ったという。山頂付近の展望をもう少しよくしたらどうかと聞くと、頷いていた。

ここから少し南西に行くと開けたところがあるというので行って見ると、「五在所山」(九七六㍍)の鋭い山容が枝の間から望見された。「頂上の神社が見えるぞ!」と云った友人がいて、爆笑で即座に否定されたが、そのように見ればそのようにも見えるのが可笑しかった。実は、平成十四年三月に三人でこの山に登っていたのである。



十三時二十分下山開始。同四十分、峠を西に降りた所に大岩があり、ここから北西方向に展望が開けていた。筒上山、手箱山、瓶ケ森が遠望できた。すぐ横でツツジが満開だった。十五時二十分駐車場着。二時間を要したのは、道中の寄り道やら遊びの所為である。


左 方 の こ ん も り し た 筒 上 山 、 そ の 右 が 手 箱 山 、 右 方 の 尖 っ た 瓶 ケ 森

ここは、「小式ケ台」という珍しくも洒落た名前の山が南越集落を抱くように包み込み、しかもこの集落からその山容がすべて見えるという特異な地形をしているのである。このため、ここの人達は常にこの山を仰ぎ見ながら暮らすことになり、御山に対する尊崇の念は特別なものがあったのだろう。そのためだろうか、六社神社という立派な氏神様を持ち、参道もよく整備されているのだと思う。

ただ登山者にとって残念なのは、本来見晴らしのよい山であるのも拘わらず、尾根道の北側に一か所展望が開けるのみで、折角の眺望が植林で隔されていることである。とくに東側岩壁や山頂付近の植林はいま少し整理をして、景色をよくすればさらに喜ばれる山になるのに違いないと思うのだが……



なお、「点の記」によれば、選点は明治三十年、昭和二十三年に震災復旧がされている。なお、所在は吾川郡小川村大字東津賀方字コシキガダイ二四一八番地である。この山に登るルートについて以下の記述がある。
 「吾川郡小川村大字西津賀方より北方へ二・五㌔行くと川又に達する。川又より更に境谷部落を経て東津賀方に至る小径を一・五㌔登ると字花ノ木に達する。本点は花ノ木部落の東南方一㌔の山頂にある。」とある。当時は、南越部落からのルートはなかったものと思われる。