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四国の山なみ【土佐の伝説~五百年前の高知】

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四国の山なみから、土佐の伝説~五百年前の高知を紹介

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四国の山なみ~古典山岳文献/土佐の近代登山史 | Trekking from Kochi

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たまたま見つけた『四国の山なみ』ってサイトですが消えてしまう可能性があるので保存・紹介します

五百年前の高知

 ≪五百年前の高知市、人家は十軒足らず≫


  高知市では戦災により市街の大区画整理を断行し、昔時の面目を一新すべく目下復興途上にあるが、この際千年前と五百年前との市の比較研究するのも無駄事ではあるまい。

 今から一千年即ち貫之朝臣や高見朝臣が来国した当時の高知市は一面海で浦戸湾内には比島、田辺島、洞ケ島、大高坂山などが点々として少しばかり頭を出していたに過ぎない、鹿持雅澄翁は当時の想像図をものした、これは現在でも貴重な文献として取扱われている。

 然るに五百年前の高知はどうなっていたか、文献も想像図もなく郷土史家を落胆させていたが、先年、通町一丁目の山本逸郎家から五百年前の古図が発見されこれで当時の模様がハッキリしたのである。


古代之図

古 代 之 図 ・ 承 平 4 年 ( 一 五 九 四 )


 この古図は想像図でなく秦町の愛宕山から鳥瞰したもので東は種崎、五台山、陽貴山、前方は湾内一面の中に松が鼻があり、旧市には鏡川が流れ人家は一軒もなく、ただ潮江には四、五軒の人家があって潮汲みを業とする有様が描かれている。

 また同所から長濱方面に通ずる字津野越がはっきり描かれている。

 なお久万川流域にある小高坂、小津方面にも四、五軒の人家が点在している。

 これで見ると五百年前の高知には十軒足らずの家しかなかったわけで、わずか五百年間の発展に驚くのである。

 (南国夜話より)


少しでも読みやすくと思い改行を追加しています 
 改行以外は何も手を加えていません



感想

土佐の伝説とありますが、この記事は資料に基づく事実なんじゃない???

まぁ、古図1枚で事実と証明できないから伝説とするしかないのか、、、

海の中

五百年前の古図とありますが、500年前と言うと、、、

西暦1525年、室町時代の後期、、、

その頃は、高知市のかなりの部分が海の中だったんですね


それから大地震と言われる歴史にも残る大きな地震で土地が隆起し、、、と思ったんですが高知市と関係ある大地震と言えば南海地震

南海地震は1946年なので地震による隆起で標高があがり陸になったとは考えられない

って事は埋め立てや開発で陸・土地にしたって事でしょう

恐らくは新田開発で田んぼを作り、河川工事他で現在の形になったと、、、

平成、令和世代は信じられないでしょうが昭和の高知市は田んぼだらけでした

北環状線、南国バイパス、大津バイパス周辺なんか田んぼが殆どを占めていたなんて想像できないでしょうね

地名の由来

土地の名前の由来とかも読み取れますね

『比島』なんか、まさに島!!

なぜ比なのか、、、

ひに対する単なる当て字か、、、

比は辺り・そばを意味するから、近くの島って意味か、、、

Google先生に聞いても由来はでてきませんでした

恐らく当て字だと思われます


小津は、津が船着き場等の意味があるから小さい津って事で小津でしょう


江ノ口なんかは入り江からきてんじゃないか???

入り江の入り口で、江ノ口


昔の資料とかみてるとやっぱ面白いね


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