Mutter
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四国の山なみ~古典山岳文献/土佐の近代登山史

2024/10/26

先日、興味の湧くサイトを発見しました

しかし、そのサイトはすでになくなっている。。。

それなのに見つけられたのは何故か。。。

 ※四国の山なみシリーズは一部ダークモードに対応していない箇所があります
ライトモードでご覧ください
文字の色、背景色等を変更して元の雰囲気を壊したくないので 

GeoLog Project


閉鎖されたジオシティーズのウェブサイトを

個人で消滅前に保存している方がいたんです

https://geolog.mydns.jp/

サーバーの性能が低いため、過剰な負荷はかけないようにお願いします。

ウチみたいなブログでリンク張っても影響ないでしょうが念の為アドレス表記だけにしときます

興味のある方はコピペで行ってみてください


ここで保存されていたのが、、、




発見したサイト


四国の山なみ

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/kyoketu/index-2.html


昭和初期の頃の話や写真、伝説、言い伝え的な事、地形、植物、文献、、、

非常に面白くて興味深い!!


しかしGeoLog projectに、、、


予告なくサービスを一時停止/終了する場合があります。


との一文が、、、


って事で

ウチは完全無料でBloggerを利用しています

個人の費用負担はゼロ

Google様です

そう簡単にはBloggerのサービス終了する事はない、、、

Google+はサービス終了しましたが、、、

Bloggerは終了しないと信じたい。。。


たまたま見つけたサイトですが

このまま消えるかもしれない状態ってのは勿体無い

2ヵ所で保存していれば、どっちか生き残るだろう


ブログの記事としては

人のふんどしで相撲をとる様な、、、

一歩間違えばパクリ記事です、、、

そんなの絶対に嫌でしたくない、、、

もしかしたらGoogleからコピペのブログと判断されたら評価が下がるかも、、、


んが、保存します!!


なんでこんな事をしようと思ったのか

それは、、、

四国の山なみの記事から行きたい山、確認したい事ができたんです

全然知らなかった事を知って、行ってみたい、確認したい事ができたんですよ

これって、山に遊びに行く楽しみが倍増します!!

ただただ山に行ってのんびりするのも楽しいんですが

なにか目的、別の楽しみがあるってのはテンション上がります


って事で、元記事のコピペで保存をしつつ紹介していこうと思います 




四国の山なみ

このサイトを一括で保存する方法なんぞ知らないので

切り取り、切り取りで紹介・保存していきます



古典山岳文献

四国山脈とは

「四国山脈」といえば、四国の中央部を東西に走る脊梁山脈のことであって、付図の中央山系と秩父山系がほぼこれにあたる。

東西約二百五十㌔、南北約五十㌔にわたり石鎚山系と剣山山系とが最も主なものである。

ところが題名の四国山脈はもっと広い意味のもので、深さ四千メートルの太平洋海底から見た日本列島全体が高度七千メートルの大山脈であるように、四国を中心とし、土佐湾底を中腹とする一大山脈を意味するのである。


地球観測衛星ランドサットから見た四国


一番北側が讃岐山脈で、約七千万年昔の海底に堆積した地層からできていて、竜王山・大川山などの海抜千㍍内外の山が主である。



讃岐山脈と中央構造線の大断層崖で境し、その南に東西に連なる第二の連峰が中央山系で、これが四国の脊梁となっている。

三波川系という日本で一番古いと考えられている地層からできており、石鎚山や石墨山などは、さらにその上に噴出した火山岩が山体で、これら西日本一の高峰とともに笹ガ峰・東赤石山・白髪山・黒滝山・明神岳など千二百㍍から千八百㍍の諸峰がある。


その南、第三の連峰は中央山系と〝御荷鉾構造線″で境され、秩父山系といって二億年から三億年前の海底堆積層からでき、石鎚山につぐ高峰剣山をはじめ西から雨包山・不入山・鳥形山・中津明神山・笹ガ峰・梶ガ森・鉢ガ森・高板山・三嶺・石立山・高城山・高丸などの山々があり、みんな千㍍以上の高度を持つ。山は低いが景色のよい虚空蔵山も、高知市北方のなじみ深い国見山(雪光山)・工石山・土佐山の連峰もこれに属する。


第四の連峰はつまり最南部のものは付図ではかりに安芸四万十山系と呼んだが六千万年から一億六千万年以前の中生代の地層からでき、仏像構造線で秩父山系と境している。

主なものは西から大黒山・高研山・鈴ガ森・五在所山・五位ガ森・天狗森・甚吉森などで、ともに海抜千㍍以上である。


このように四国の山山は非常に高峻であり、東西に並行な数本の構造線で境される断層山脈列で、いたるところに山岳美・渓谷美を作っているわけであるが、さらに土佐湾の沖には、すでに述べた諸構造線と全く並行で、同じ性質の、筆者が南海スラストと命名した構造線が走っている。

つまり現在の四国を中心とした陸地も、土佐湾の海底も太平洋の深海底からあおげば地質構造的にはまったく区別のできない山脈列であって、このような広義の″四国山脈″が土佐の動物・植物・気象・海流などの自然条件を規制し、ひいては土佐の農林・鉱・工・水産などの諸産業を特徴づけ、土佐の歴史・民俗その他、一切の人文条件を支配しているのである。

裏四国を形づくるものは、この「四国山脈」なのである。

(『四国山脈』より・昭和三十四年、高知大学教授・理博 沢村武雄)



土佐の近代登山史

高知県の近代登山史は明治の後期にはじまる。

西の石鎚山、東の剣山にしても、信仰の山として開山された歴史は古い。

四国山脈に連なる山山が、登山の対象として登場した歴史は新しく、明治以後、スポーツの興隆によるものであることはいうまでもないが、日本登山史的に四国の山をみると、四国のあらゆるものの後進性が示しているように、日あたりのおくれた山々であった。

明治の中期(二十七年)当時の日本人の眼をはじめて山に向けさせた矧川志賀重昂氏の名著「日本風景論」に、最初に四国の山が紹介されているが、それはわずかに「天候多雨、植物のよく繁茂する魚梁瀬山脈と、四国の尾根に源を発する四万十川」という数十行である。


中津明神山から石鎚連峰を望む。

中央左が石鎚山、右のこんもりした山が筒上山

    その左が手箱山、筒上山の左が瓶ケ森


四国の山山が信仰の山から、一足飛びにスポーツ的登山へのコースをとらずに、自然科学探究の場としてきり開かれたことも興味深い。

先年物故した郷土の生んだ世界的植物学者、牧野富太郎理博や吉永虎馬先生らが、明治の中期から後期へかけて植物採集のため、四国山脈をくまなく歩いている。

こうした人たちは広い意味で本県山岳界の先覚者であり、草分けの役割りをはたした。

牧野博士の随筆にも明治の中期、ユカタがけで石鎚山に採集登山して、豪雨にあったことが書かれている。

吉永先生は植物学者でもあるが、日本山岳会員としても著名の人だった。


日本山岳会は明治二十八年に発足したが、吉永先生は翌翌三十年に入会、その会員番号も百二十番の若い番号であった。

日本山岳会発行の「山岳」に、土佐の豊富で美しい植物の様相を、学者的立場から発表して、四国の山を日本全国に紹介した。

これらの学者は登山が本来の目的ではなく、学問探究の手段のための登山ではあったが、興味深い紀行文や随筆が、どれだけ青少年たちに四国の山のあこがれをもたせたかわからない。

牧野・吉永両先生の功績は、四国山岳史の第一ページを飾るものであろう。


厳冬の石鎚山 、昭和十年


ついで大正の末期から昭和の初期へかけて、四国の山を登山のコースとして指導したのは四国の国有林を管理する高知営林局である。

森林経営の営林局が登山指導にのりだした第一の目的は、登山の振興とともに、国有林の荒らされるのを防ぐため、登山者を教育指導したものであったが、それにしても四国アルプスといわれる前人未踏の脊梁山脈に「国境歩道」をつくった意義は大きい。

この歩道は昭和のはじめ、昔からキコリの道もなかった石鎚連峰の瓶ガ森・寒風山・笹ガ峰・平家平と二千メートル級の峰から峰をつなぐ困難な山道を新しくきり開いたもので、延長実に三十キロにおよぶものである。

この歩道ができたおかげで、山になれた猟師も恐れて通らなかった四国の尾根が、わずか一、二泊で縦走できるようになった。


国境西小屋( 中 央 )昭和十八年


この国境歩道を営林局に完成させたかげの功労者は、いまは故人となった同局「林友」主幹大川鈴路氏(元県岳連会長)である。

大川氏は局の幹部に、四国アルプスの峰をつなぐ眺望のすばらしい歩道の必要性を力説して、巨額の金をつぎこませたほか、国有林の登山基地として山小屋を建設した。

石鎚山系の国境西小屋・瓶ノ小屋・東小屋などの新設は、その後の登山をどれだけ容易にしたかわからない。

こうした山の家建設に刺激されて、中級の山梶ガ森、甫岐ガ峰などにも、山小屋があいついで建設される時代となった。


高知営林局の登山指導に並行して山に登る人たちは急にふえてきた。

そのトップをきったのは、中・高校(旧制)山岳部だった。

それは昭和七、八年から日華事変の起こる昭和十二年ころまでの期間である。

この中でも最も山岳歴の古いのは旧城東中学・高知師範・土佐高女などであった。

城束中学では伊与田民夫教諭がリーダー、高知師範は楠瀬洋吉氏(現追手前高校長)、土佐高女は横田稔雄氏(故人)らが中心となって活躍した。

なかでも昭和九年一月一日土佐高女生七名がはじめて剣山の雪中登山の壮挙に成功、白雪深くケルンを埋めて南国女性の意気を示した。

女性が山に登ることすら批判された時代に男性もやれなかった雪中登山を、あらゆる苦難を克服して登頂したことは、その後女性の登山に新しい境地を開いた。

リーダーは大川鈴路・横田稔雄氏らだった。


梶ケ森で土佐高女生ら早朝体操、昭和十年九月


つづいて昭和十年には高知師範生九名(リーダー楠瀬氏)が、石鎚山系の雪中踏破にはじめて成功した。

この縦走は七日間を要したが、必要な物資は馬の背にのせて辞職坂をこえ、本川村越裏門まで運び、さらに人夫にかつがせて西小屋を根拠地とし輪ガンジキ・アイゼン・ピッケル・ザイル・スキーとあらゆる氷雪用具を使い、積雪の中で二夜もキャンプを張って、やっと平家平をこえる、という苦難の連続だった。

それから昭和三十三年の冬、高知大学山岳部員二十名の雪中完全縦走まで、リーダーを含めて十数名にのぼる群団の、冬季縦走の輝かしい記録は破られなかった。


また、そのころには高知高校山岳部(代表岡本重雄教授・沢村武雄教授)も登高と指導の面で四国の山に足跡を残した。

登山を科学的に解明し、気象・動植物・地質・食糧・登山医学といった新しい部面にも、学徒らしい貴重な研究を岳誌「南岳」に発表して、後進登山者たちに指針をあたえ、名実ともに本県山岳界のリーダー的存在であった。


馬一頭を雇い

 これに米2斗 、味噌、漬物各1貫、

 ルック、スキーを担がせて

辞職峠を越えた。

 吾川郡日比原・辞職峠の麓で撮影


樹氷地帯を行く


こうした学校山岳部の集団訓練的登高に刺激され、一般山岳団休の動きも昭和七、八年ごろから急に活発になり、いわゆる登山黄金時代をつくりだした。

ACC(アルファ・キャンピング・クラブ)と高知山の会が当時を代表する二つの山の団体だった。

ACCは山の科学者たちを主とし、高知山の会は山の愛好者たちの集いであった。

ACCには大倉幸也・上村登(植物)、橋本清美・平田茂留(地質)、杉原勇三・岡本啓(昆虫)などの各氏があり、現在本県の第一線で活躍している自然科学者たちはみなそのメンバーである。

岳誌「ランタン」を発行、四国山脈の未知の自然の姿がつぎつぎと発表され、登山の内容を豊富にしてくれた。

高知山の会は川島慶太郎・吉本融・川野金十郎の各氏らがたてこもり、自由な立場から四国の山をくまなく登高、とくに本県のおくれたスキー技をゲレンデから山岳スキーにまで引きあげた情熱は、いまも高く評価されている。


山を写真という新しい視野から紹介した山男、小松勇氏(日本山岳会員)も四国登山史の中の一人である。

有名な山岳写真家長谷川伝次郎氏とコンビで、日本アルプスの美しい山容をレンズに収めた本県には珍しい山の経歴の持主であり、現在も一線の登山家として活躍している足跡の広い、根っからの山男である。


本県のスキーは学校山岳部の振興に少しおくれて発足した。

これも高知山の会の有志や学校山岳部によって普及、本県では嶺北の梶ガ森(大豊村)が本県スキーの発生地となった。

しかしブッシュの多い梶はやがて柚ノ木・吉賀野(大豊村)と移り、さらに塩塚・腕山(徳島)へと飛躍した。

雪に恵まれぬ南国土佐だけに雪へよせる情熱はまたひとしおのものがあり、先覚者の一人、井上清氏は後進の指導に献身的であったが、惜しくも若くして死去、故人の功績をたたえる「井上杯」のスキー行事は、いまも毎年続けられている。


柚ノ木スキー場、昭和十八年三月


長い戦争中も登山は健全なスポーツとしてその使命を失わず、むしろ盛んにさえなったが、資材や食糧難などで次第に困難となり、ついに敗戦を迎えた。

終戦後県岳連が発足、初代会長に大川鈴路氏が就任、大きな足跡を残したが、昭和三十年この大先覚を失ったことは、県山岳界の損失であった。

しかし幸い後任に高大沢村武雄教授を迎え、国体の山岳競技、全国高体連や四国山岳大会の参加者は年年増加、健全なスポーツとして登山が本来の姿をとりもどしたことは、本県登山界にとってまことにしあわせといわねばならぬ。

(四国山脈より・昭和三十四年、元高知県山岳連盟副会長)


付録 : 「 全行程二百㌔踏破の石鎚登山 (高知第一高女) 」



全行程二百キロ踏破の石鎚登山

(昭和十七年)八月の四国の屋根は猛夏に鍛錬する人々で連日賑わっているが、県立第一高女山岳部員十七名は西村、和田、宮本教諭に引率されて、さる六日高知発、石鎚連峰に登山、乗物に一切のらず全行程二百㌔を強行軍して健脚ぶりを発揮、十二日全員無事帰校した。

これは同山系の全行程徒歩登山は女学生としては本県最初のものである。

以下はその登山記。


一行は六日、吾川郡日比原に一泊、七日は険阻をもって有名な辞職峠を越えて土佐郡本川村竹ノ川営林署作業所泊り、八日は吉野川上流の大渓谷沿ひの山道をふんでめざす石鎚山系の麓にとりかかる”土佐のチベット”といはれるこの付近は千古の斧をしらぬ自然林で昼でもなほ暗い。

胸をつくような急坂を重いリュックサックを背負うてやつと国境西小屋(一五〇〇㍍)にたどりついたのは午後三時過ぎ。

山小屋のいろりを囲んで自炊のおいしいご飯をたらふく食った。



九日、午前四時起床、東方遥拝、黙祷ののち前夜用意の弁当をつめて瓶ケ森(一八九七㍍)に向かう、薄が穂をはらんで山上の涼気は下界の十月のようだが、シコクシラベの白骨林の根元には可憐な高山植物が鮮麗な花弁を開いて一行を歓待するかのようだった。

頂上は新居浜高女や松山中学等登山者で一杯、正午すぎ物凄い雷を交えた豪雨に頭から濡れながら逃げるように西小屋に引き揚げた。


十日、いよいよけふは石鎚山に登るのだと一同元気に出発。

土小屋付近から東をみると瓶、伊予富士、寒風、笹ケ峰など千八、九百㍍級の山が重畳として雄大、西に眼をやれば西日本一を誇る石鎚山天狗嶽(一九八二㍍)が指呼の間にある。



やがて二の鎖にとりかかる、

重いリュックを負ひ夢中になって九天の空から魔物の手のように垂れ下がつた鎖にしがみついて正午すぎやっと一の鎖元についた、

ここへ荷物をおいて身一つの軽い姿で再び鉄鎖を頼りに頂上によぢ登った、念願の頂上だ。



一同東方を遥拝、皇軍将兵の武運長久を祈り”海ゆかば”を斉唱して乙女の胸をふるはせる感激のひとときを頂上で過ごしてから鎖を下り、こんどは道を変へて面河渓谷へ一気に下り亀腹の温泉亭へ午後六時着。


十一日、奇勝関門の渓谷美を探りつつ面河川を下り山道に入つてコオダ越(一一一二㍍)をなして池川町に一泊、十二日さらに足をのばして一名の落伍もなく同夜帰校した。

(大阪毎日新聞に掲載、昭和十七年八月十四日付)


少しでも読みやすくと思い改行を追加しています

改行以外は何も手を加えていません


感想

四国山脈に関しては へぇ~、、、 くらい

地質とか興味がないから(^^;

牧野富太郎

牧野富太郎は目的が植物で登山目的ではなかったとはいえ

四国の登山の先駆者だとは知らなかった

四国の登山の歴史は植物学者が植物の為に始めたって感じ?

来年2023年には牧野富太郎を題材にした朝ドラが始まりますね!!

高知の人間は凄く楽しみです

もしかしたら四国の山々を探索していた様子がドラマに出てくるかな?


高知営林局

登山普及の為に高知営林局が登山道の整備、登山指導にのりだしたのも知らなかった

山に慣れた猟師も恐れて通らなかった四国の尾根を開発して登山道を作ったって、、、

これがなければ自分みたいな者が気楽に山に行ける日は来なかっただろう

現在もこの先も、登山道の整備に国、市町村から大きな予算がでるわけないから

昔の人に感謝、感謝


これ剣山(徳島)にあるんですが

いつも『なんで高知営林局?』と思ってましたが

四国の山なみを見て謎が解けました

高知の営林局が四国の国有林を管理してたからなんですね


辞職峠

昭和十年には高知師範生九名(リーダー楠瀬氏)が、石鎚山系の雪中踏破にはじめて成功した。

ここで出てくる辞職峠ってどこ???

調べてみたら

程ヶ峠
高知県吾川郡いの町上八川下分
ここみたいです

辞職峠の名前の由来は、、、

高知市街から本川村に赴任するお役人が道のつらさに辞職して引き返したという。

どんだけ辛いんだよ。。。

辞職峠は全国各地にあるようです


馬に担がせたルックってなに?と思ったら

ザックの事みたいです


高知の山岳部

最も山岳歴の古いのは旧城東中学・高知師範・土佐高女などであった

って言われても、現在の校名は???

  • 旧城東中学(現追手前高)
  • 高知師範(師範学校とは戦前の日本および日本の統治地域に存在)
  • 土佐高女(現土佐女子中・高)

昭和九年一月一日土佐高女生七名がはじめて剣山の雪中登山の壮挙に成功って、昔から土佐の女は強かったんだな。。。

怖い、怖い、、、

いや、女性が山に登る事を批判される時代にこんな凄い事したなんて尊敬しかないね


今は知りませんが、自分ら世代だと、、、

親に『土佐女子に行きなさい!!』って言われて土佐女子に入ったって言う友達、知り合いが何人もいました

この意味がなんとなく解った気がします

自分達の親世代にとって土佐女子は高知の中で伝統あるお嬢様学校って感じなんでしょうね

四国の山なみの記事を読んでも、昭和初期に登山してるってだけでお嬢様確定でしょ?


県立第一高女(現、丸の内)山岳部員も凄すぎるだろ!!

やっぱ男より女の方が強いよ

偉業とは全く関係ないですが文章でミスかな?と思うのは 

やがて二の鎖にとりかかる、

重いリュックを負ひ夢中になって九天の空から魔物の手のように垂れ下がつた鎖にしがみついて正午すぎやっと一の鎖元についた、

ここへ荷物をおいて身一つの軽い姿で再び鉄鎖を頼りに頂上によぢ登った、念願の頂上だ。

一の鎖元って三の鎖の事かな?

じゃないと可笑しな話になる

まぁ、とにかく昔から土佐の女は強かったって事


一回目の『四国の山なみ』の保存、紹介でしたがどうだったでしょう?

こういう歴史を知る事が必要か?

と聞かれたら必要ではないけれど、、、

知っていて損はしないでしょ?


昔の人は苦労して歩いていたんだなぁ。。。


って思う事ができるようになるだけでも良いかなと。。。


記事の意図

コピペで記事作成の意図はありません

目的は保存、紹介ですが

問題があればコメント、またはお問合せからご連絡ください

必要であれば記事削除致します