平成十八年四月十八日、晴天だが、黄砂のため霞んで見える。
友人と二人で、八面王(やつらおう)神社跡がある「滝ノ平」(点名、たきのひら、五四七・四九㍍)を目指す。八面王やいざなぎ流祈祷に関連する怪奇な由来があると知って気軽な気持ちで行くことにした。ところが、これが中々荒れた山で梃子摺ったのである。
詳 細 登 山 地 図 |
八時五十分、高知市発。国道五十五号線を東に進み、芸西村松原付近で左折、北上する。次第に山中に入り、久重(くえ)集落の「タキミシダ」〔滝見羊歯・一八八六年、牧野富太郎博士が高岡郡上分村(現・須崎市)の「樽の滝」で発見した〕を見学した後、十時三十分、左に見える貯水槽横の登山口(標高三五〇㍍)着。近くの道路脇に駐車。
十時四十分登山開始。尾根道筋の登りでこれが頂上近くまで続く。急坂ではないが登山道は大荒れで、その八割が藪漕ぎに近い悪路である。倒木、新生木、枯木などが至るところで道を塞いでおり、倒木を跨いだり、潜ったり、迂回したり、枯木を踏み潰したりしながら登るので時間がかかる。時々立ち止まってルートを確認しなければならないので疲れはない。頂上までコブを五つ位通過する。
十一時五十分頂上直下の石段下に到着。百二十一段に及ぶ石段を登りきると、八面王神社跡である。丁度正午、一時間二十分を要した。
ここには、小さい祠一つと神社跡の広場、石垣が残っている。
ただそれだけで記念するものは何もない。この神社は、後述するが、現在は登山口近くの仁井田神社に遷座されているのである。また八面王というのは、頭が八つある蛇ともいわれ、この神社は竜神様のように荒神鎮めのために建立されたものであったろうか。ここに神社があった頃は、地元の人達が参道として整備をされたのであろうが、遷座されるとやはり放置されるようになり、それに登山者も殆どないので、荒れ果てて捨てられたような山になったものと思われる。なお神社横から北に夜須町白木山地区へ抜ける山道があるはずだが、今は多分藪化していることだろう。
神社跡から東へ五十㍍位で三等三角点の山頂。所在は香美郡芸西村大字久重山字滝ノ平甲九五七、選点は明治三十五年だが、昭和二十三年に災害復旧がされている。付近の樹は伐採されて広場になっているが、眺望は全くきかない。
全体にこの山は植林が多いせいか、道中どこへ行っても眺望が全くきかない山である。もっとも視界が開けていたとしても景色があまりよくないことは地図を見ても容易に想像されるのであるが―――。まあ、強いて云えば、道中にはツツジ類が各所に咲いており、空気はまことに爽やか、藪を掻き分けて進むので、如何にも山に入ったという感を深くするのが救いといえばそういえるか?
十二時五十五分山頂発。石段を降りたところで、往路を採らず左(東)の道を行き、大屋敷を目指す。しかしこの道も荒れている。
一度急降下するが、その後は谷を右側に見ながらのトラバースが長く続き、道が谷側に崩落しかかったところが少なくないし、踏み跡もはっきりしないので、相談の結果、植林された谷を降下することに決定。これはここに踏み跡があったように見えたためだが、誤った。やはりトラバースする道を採るべきだったが、これも悪路でない保証はないのである。
当然のことながら、この谷には道らしい道はなく急斜面である上に、倒木、新生木、枯枝、谷川などが歩行を妨げ難渋した。引き返すわけにもいかない。一歩一歩である。これを我慢しながら暫らく行くと棚田が現れた。植林、放置されて数十年を経過し、手入れもされていないので、道は全くなく、ルートを探しながら左に右にただひたすら下降するだけである。棚田が続き、その荒廃の様子に今昔の感を深くする。立派な家の石垣を見るような驚嘆するようなものもあった。先祖の人達の血と汗の結晶である石垣と田をこのような状態で見ることは辛いことである。あちこちの放棄田に棕櫚が生えている。ここだけでなく外の山でも見たことがある。全国的にも棕櫚は放棄田畑と関連していることが多く、通常の二次林の中に出現することは少なく耐陰性は高いといわれる。
さらに降下をしていると、飲料水確保のための貯水槽が現れた。もう集落も近いと駄弁りながら歩いていると、下の方で誰かが、
「そこをもうちょっと東へ行ってから、谷を降りてきいや」
と云う声がした。その通りにすると、林道に降り立つことができた。高齢の男性がニコニコと笑いながら近寄って来た。われわれの声が聞こえたのである。地図を広げていろいろ質問をした。ここは大屋敷という集落だと言った。前方には広い残土置場があった。
「どこから来た?」
「滝ノ平から来たが、どうも道を間違えたらしい」
「よく降りて来られたものじゃ。じゃが、谷を降りておれば迷うことはない」
と云って笑った。十五時丁度だった。一時間五十五分を要した。
「わしらアは、〇〇歳ぞね。豪いろがよ!」と冗談を云うと、
「わしゃ、八十ぞね、若いときに重いものを持ちサガいたきに痛とうてのオ」
そう云えば、腰にコルセットを捲き付けていた。
親切な人で、「腰は痛とうても運転はできる」と云いながら、仁井田神社、八面王神社の入り口まで車で送ってくれた。
ここから谷の方へ降りる道を五分で神社に行き着く。鳥居に御幣がぶら下っている。古ぼけた神殿があり、脇に遷座された八面王神社の小祠がある。神殿の中を拝見したかったが、雨戸を固く閉めており入ることはできなかった。
この山には余程変わり者でないと登るものはいないと思う。登山道が荒れているのがその証明であるし、山そのものにも魅力があるとは思えない。八面王神社を遷座したのが致命的だったに違いない。
しかし、望みはしないが、否応なしに久し振りの藪漕ぎ、谷降りを満喫して大変面白かったというのが、偽らざる印象である。
「土佐の風俗と伝説」の中に、八面王の話が出ている。
山に出る恐ろしい怪物は、六面王、八面王、九面王。それらは顔色が名の通りの数だけ変わるとか、頭がその数に分かれている蛇のような化け物ともいわれる。これらは、年齢を重ねた猿が化けるという。さらに、八面王は顔が八つある山爺の一種ともいう。
以上のように、正体がはっきりしない怪物である。
ところで、「いざなぎ流祈祷」の御幣の中に、八面王のような人の顔が八つあるものがあるという。興味深いので、以下に「いざなぎ流」について調べてみた。
これは、高知県香美郡物部村で平安末期から中世にかけて仏教、神道、陰陽道、修験道など種々の宗教や習俗が混淆して原型が形作られ、バリエーションを広げながら継承されてきた民間信仰である。昭和五十五年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
この地域に住む太夫(たゆう)と呼ばれる祈祷師たちによって、師子相伝の形で伝承されている。いざなぎ流には礼拝をするべき神像がなく、祭儀になると和紙を切って御幣をつくり、これを神格の像として祀る。御幣は二百種類以上もあるという。この中に八面王の御幣もあるのだろう。
いざなぎ流の祭りで、現在、もっとも盛大に行われる儀礼が日月祭である。日月祭は、家の神の祭りや神社の氏神祭りの時に行われるが、これらの祭りはほかの家の神、氏神をすべて祀らなければならないので、およそ一週間がかりの大祭になる。
誰が参加してもいいことになっていて、さまざまな踊りも行われ、村人の愉しみともなっている。日月祭には、三日月、十七夜、二十三夜の三種があり、どの神を祀るかは、家あるいは神社によって決まっており、それぞれ旧暦のその月の出を祀り、お日様も拝む。最近では、平成十一年三月一日から四日まで、物部村市宇集落の十二所神社で執り行われた。
いざなぎの世界は、科学と呪術、祈祷などが未分化だった時代の痕跡をとどめている。森羅万象を科学的に説明する術を持たなかった時代には祈祷や呪術が幅を利かせた。伝えられているいざなぎ流のもう一つの側面がそれである。怨霊との格闘やスソ(災い)払いを中心とした呪術の系譜、病を祈祷で治そうという秘術などである。このような時代離れをした祈祷術が現代にも残っているだけでも愕きである。
物部村と隣々村の芸西村の八面王神社とがどういう関係にあるのかはわからない。また、久重から山を降りてくる途中に十二所神社があるが、これとの関係もわからない。
(参考) 棕櫚はなぜ植林された耕作放棄田畑や植林地
に多く自生するのか?
結論から先にいえば、小鳥が種子をばら撒くことから起ると思われる。
棕櫚(しゅろ)は、挿し木、取り木などの栄養繁殖はできず、実生で繁殖する。そのさい、熟した種子を採取して土中に埋めて果皮を腐らせ、春に取り出して水洗した後、播種すると発芽定着しやすい。果皮をつけたまま風乾した種子の発芽がよくないのは、果皮に含まれる発芽抑制物質によるといわれる。
果実は緑色から青黒色の直径六ミリから一㌢の扁球形で、冬には小鳥がよくこれを啄ばむ。糞として排泄された種子の発芽がよいのは上の理由で頷けられるのである。また、棕櫚は耐陰性、耐暑性、耐寒性、耐乾性にも優れ頗る丈夫な樹なのである。
(平成十八年四月記)