四国の山なみ保存計画第六弾
古典山岳文献 四国の山山 の中から 三嶺 を紹介します
第一弾はコチラ
※四国の山なみシリーズは一部ダークモードに対応していない箇所があります。ライトモードでご覧ください。文字の色、背景色等を変更して元の雰囲気を壊したくないので。古典山岳文献
四国の山山 ~ 三嶺
四国一の展望を誇る土阿国境の盟主三嶺(一八九三・七㍍)といってもピンとこない人が多いかも知れない。
この山は信仰の山ではないが、蛇神の棲む山として土地の人々には非常に恐れられ、とくに女性にはごく最近まで登る者がなかったといわれる。
三嶺とは三つのウネの集まりの意で土地の人は「ミウネ」といい「サンレイ」とは登山者が呼びはじめたもので、この地では通じなかった。
東の瓶といわれる三嶺は、大木帯をはるかに抜き、尾根は広々とした大草原地帯で、頂きに立てば太平洋と瀬戸内海を一望のうちに収め、天気のよい日には、遠く中国山脈まで望むことができる。
夏と冬
山脇哲臣氏撮影
この山に入るには、国鉄バス終点影駅から二つのコースがある。
一つは伊勢道と呼ばれる白髪通りで、五万分の一にも記されているこの道は八十年ほど前、伊勢の某が病気で剣神社に願をかけ、叶えられたお礼に土佐街道を遡り、韮生の五王堂で三㌔に余る大鍬を打ってもらって白髪山から剣山にかけてのクマザサの藪を、一鍬一鍬打ち返してつけた道といわれる。
その後、剣山の山開きには先達がホラ貝をブンブラ吹きながら刈り開けて通っていたが、ある年、二人の死者が出てどうもこの道は危険だと、以来通らなくなり、いまはこれが地図にある道か?と怪しまれるほどの荒れようで、薮漕ぎの達人でなくてはちょっと無理。
しかし国境に出てからは快適な尾根歩きで、二、三の隆起を越して急な三嶺南稜を一歩一歩注意して登れば、アルプスの岩場さながらのスリルを味わうことができ、やがて頂きである。
後の一つが一般に登られているコースで、影駅からシンドイ坂を約二十分で和久保に出る。
ここには三嶺に深い関心をもち、登山者にも何くれとお世話して下さる森田道重さん夫妻宅がある。
ここに立ち寄り、おいしい久保のお茶をもてなされながら、三嶺の予備知識を授かり、出かけるとよい。
二十分ほど歩くと道は北に大きくカーブして、いままで裏山に隠されていた西熊、三嶺の雄大な眺めが目の前に展開し、いよいよ山に入るのだという満足感が湧き出てくる。
ここから樹林帯に入ったり出たり、淡々とした道が「堂床」に続く。
ここには数年前までは登山者の憩いの宿であり、冬の三嶺登山によい根拠地である森田さんの山小屋があった。
いまは潰れかけた人夫小屋だけ寂しく残っている。
昔、阿波から観音様を背負い、躄峠を越して来た人が、丁度いい所だとここに居を構え、観音様を祭って、久保の地が開けるまで何代もこの地に住んだというところから、堂床の名がある。
なお二十分も登れば「八丁の小屋」に出て、近くに水もあるので一息入れるのもよかろう。
この小屋は十四、五人なら楽に泊ることができる。
ここから道が分れるが指導標に従って右の道をやや降り目に行けば、八丁白川原と呼ばれる山には珍しいほど平らな川原にでる。
物言わぬケルンに案内されて、鬱蒼とした原始林の中をくねくねと流れるフスベヨリ谷を右に左に渓谷のスリルを味わいながら、約三時間で青ザレの取り付きに出る。
いよいよ最後の登りである。
頂きに立つことができたら、まずキャンプ地に急ごう。
東に伸びた尾根を五分ほどで、年中水をたたえる三嶺の池があり、絶好のキャンプ地である。
遠く人間社会から逃れ、この高原で月を仰ぎ、満天の星をながめながら、ロマンチックな夢を描くのもよかろう。
静かな三嶺にこんな話がある。
七、八十年前のこと、森田さんの祖父が猟に出かけ、池の付近にあった苔の生えた倒木に腰をおろし、煙草をくゆらしていると、目の前に一頭の鹿が現われた。
「そら出た」と口にしていた煙草の火を落そうと、腰掛にしていた木にキセルを打ちつけると同時に、足元から大蛇が鎌首を持ち上げて睨みつけたという。
実は腰掛にしていたコケの生えた倒木こそ、この池の主であったというから、いかに大きな蛇であったかがうかがえる。
やがて池の中に姿を消して以来この池の水は涸れてなくなり、いまは湿地となって現在の池の西上方に残っている。
この二つの池は牝池、牡池と呼ばれ、旱魃が続く時には、鉾を担ぎ上げ、池の水をかき回して雨を乞うたと伝えられている。
このように水に手をつけることも出来なかったという蛇が棲む池も、今では何事もなかったように静かで、今日もまた登山者達が炊事に忙しいことであろう。
帰路は果てしなく続くクマザサの高原を西に辿り、西熊山(一八一六㍍)の北側を巻いて約二時間でオカメ岩の鞍部に着く。
この美しい高原に別れの手を振りながら、カンカケ谷下りで八丁の小屋へ二時間、ここで登り道と合し、バス終点影駅まで約三時間のコースである。
(「四国山脈」より・昭和三十四年、三嶺山岳会 五藤 孝志)
少しでも読みやすくと思い改行を追加しています
改行以外は何も手を加えていません
感想
大蛇伝説
この山は信仰の山ではないが、蛇神の棲む山として土地の人々には非常に恐れられ、とくに女性にはごく最近まで登る者がなかったといわれる。三嶺とは三つのウネの集まりの意で土地の人は「ミウネ」といい「サンレイ」とは登山者が呼びはじめたもので、この地では通じなかった
蛇神?
恐れられていた?
女性は最近まで登る者がいなかった?
更に、、、
静かな三嶺にこんな話がある。七、八十年前のこと、森田さんの祖父が猟に出かけ、池の付近にあった苔の生えた倒木に腰をおろし、煙草をくゆらしていると、目の前に一頭の鹿が現われた。「そら出た」と口にしていた煙草の火を落そうと、腰掛にしていた木にキセルを打ちつけると同時に、足元から大蛇が鎌首を持ち上げて睨みつけたという。実は腰掛にしていたコケの生えた倒木こそ、この池の主であったというから、いかに大きな蛇であったかがうかがえる。やがて池の中に姿を消して以来この池の水は涸れてなくなり、いまは湿地となって現在の池の西上方に残っている。この二つの池は牝池、牡池と呼ばれ、旱魃が続く時には、鉾を担ぎ上げ、池の水をかき回して雨を乞うたと伝えられている
なにぃぃぃ!?
大蛇が池の中に姿を消して、池の水が涸れた!?
それが湿地帯で残っている!?
牝池、牡池!?
これは三嶺に確認に行かなければ!!
『四国の山なみ』を保存しよう!!と思ったのはこれキッカケです
こんな面白い話を知らなかったなんて、、、
自分はこの話を知って
今すぐにでも三嶺に行きたい!!と思いました
ただ三嶺に行くだけではなく、お楽しみがひとつ増えるんですよ
これって楽しくないですか?
もう自分はワクワクしかないです
で、、、
で、確認に行ってきました!!
んが、、、
まさかの撤退。。。
三嶺は3回行って2回撤退。。。
う~ん。
と、確認に行った記事も同時にアップしようと思ったんですが
仕事と天気の兼ね合いが、、、
まだ行けてません。。。
これアップすると
見た方に先を越されるかも!!
それは悔しい!!
と思って下書きはバッチリだったんですがアップしてませんでした
だって先越されるの悔しいから。。。
しかし、まだまだ行けそうにないのでアップします
興味ある方は探索に行ってみてください
自分も探索終わったら記事アップします!!
堂床
昔、阿波から観音様を背負い、躄峠を越して来た人が、丁度いい所だとここに居を構え、観音様を祭って、久保の地が開けるまで何代もこの地に住んだというところから、堂床の名がある。
観音様を運んでいた人が住んでいたんですね
確かに休憩に良い場所ですが、こんな話があったなんて。。。
やっぱり昔の登山は大変
伊勢道と呼ばれる白髪通りで、五万分の一にも記されているこの道は八十年ほど前、伊勢の某が病気で剣神社に願をかけ、叶えられたお礼に土佐街道を遡り、韮生の五王堂で三㌔に余る大鍬を打ってもらって白髪山から剣山にかけてのクマザサの藪を、一鍬一鍬打ち返してつけた道といわれる。
この伊勢道ってどこだ???
白髪通りって言うくらいだから
現在の白髪山の登山口からの事かな、、、
当時は白髪山の登山口まで行くのは、そりゃ一般的ではないわなぁ。。。
一般に登られているコースで、影駅からシンドイ坂を約二十分で和久保に出る。
カンカケ谷下りで八丁の小屋へ二時間、ここで登り道と合し、バス終点影駅まで約三時間のコースである。
影駅ってどこ?
恐らくここで間違いないでしょう
現在、バスを使って三嶺に行く方はいないでしょう。。。
昔はこのバス停から三嶺が一般的って、、、
今、道路が崩落等で通行止めになったら行きませんが
昔の人はそれをずっと歩いて山に入っていたんですね。。。
現在、三嶺の登山口と言えば徳島側の名頃が一番有名で利用する人も一番多いと思います
しかし!!
光石からの登山道は素晴らしいです
高知以外の方は光石まで行くのが大変なんですが行く価値はあると思いますよ
昔に比べれば光石に来るのも簡単な話です(笑)
出来るなら、、、、
三嶺は光石から行くと登山道とか最高です
記事の意図
コピペで記事作成の意図はありません
目的は紹介、保存ですが
問題があればコメント、またはお問合せから連絡ください
必要であれば記事削除致します
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