四国の山なみ保存計画第三弾です
古典山岳文献 四国の山山 の中から 剣山山系 を紹介します
第一弾はコチラ
※四国の山なみシリーズは一部ダークモードに対応していない箇所があります。ライトモードでご覧ください。文字の色、背景色等を変更して元の雰囲気を壊したくないので。古典山岳文献
四国の山山~剣山山系
そ の 一
嶮しい岩山の石鎚山に対し、東の雄、剣山はこれはまたガラリと趣を変えて、余りにも女性的であるといわれるほどである。
標高は石鎚の一九八一㍍にわずかに及ばず、一九五五㍍。
どこの高山もそうであるが、ここも古くから信仰登山の対象として開かれた名山であり、完備した道や宿泊施設がある。
また近来は周辺の一ノ森、塔丸、丸笹、丸石、三嶺などとともに、近代登山の対象山岳として意外に広くその名を知られている。
左は剣山、右はジローギュー、尾根は縦走路
高知から入る場合、大抵は徳島線貞光駅で下車、それからバスで貞光川の深い谷間を縫って終点剣橋まで約二時間。
ここから道は二つある。
一つは谷をすぐに川又部落へ渡ってぐっと急登する葛籠道。
他の一つはそのまま桑平の部落を抜ける桑平道。
前者の場合最初の一時間ばかりが誠に辛く、夜行睡眠不足の体には相当に堪えるが、あとは割合楽に植林や雑木林の中を淡々と約四時間で塔丸の分岐点である夫婦池に着く。
大小二つの池があるが、水は大抵枯れている。
桑平道も結局はここで一つになる。
ともに約七㌔で時間も大して変わらないが、どちらかといえば桑平道は終始きつい登り詰めである。
道はここから西へ抜ければ塔丸(一七一三㍍)から壇ノ浦の平家落人の末裔が住みついたといわれる東祖谷村に出る。
この付近を五月三日だかのお祭の日に通り掛ると、忽ち祖谷村の女性に見つかり、無理やりに引っ張って行かれて酒食のもてなしを受けるそうである。
それから果たして金の延棒を貰うところまで行けば男冥利に尽きるというものだが?嘗ての日、その現実に行きあたって下へも置かぬもてなしをされ、気味が悪くなってほうほうの体で逃げ帰ったという話を、住友金属の岳人から聞いたことがある。
池の東横、丸笹の西斜面を下り気味に約二㌔、大きなサルスベリの美しい木肌に見とれて行くうちに、その広葉樹林の尽きるところに、ポッカリと見ノ越の大きな大剣神社の前に出る。
ここには四百名を収容できる設備があり、しかも通年神主さん夫妻がいて、何くれと無く親切に世話をしてくれる。
ここから頂上まで約四㌔、一時間半位クマザサの中をつめるのであるが、途中、丁度中間あたりに、大きな岩ばかりある所があって、西島神社の小さな祠が祭ってある。
この辺りが吉川英治の「鳴門秘帖」に有名な間者牢のあった場所である。
登山道より少しはずれるが、その前に立ったとき、ここで血を流し息の詰まるような秘帳の奪いあいを演じた法月弦之丞、お綱、お十夜、それに十幾年もの間この山牢にとじ込められてその間おのれの血潮で綿々と秘帳を書き綴った隠密甲賀世阿弥を彷彿とさせられる。
頂上一帯は相当に広く所々に奇怪な白骨樹があるほかは、一面に十五~三十㌢の小ザサで覆われていて、トカゲを決め込むにはもってこいの場所である。
そして少し東よりに周囲を石垣で取り囲まれた測候所があり、その裏に大剣神社の神体である一振りの宝剣を埋めてあるといわれる高さ二十㍍ほどの大石灰岩がある。
天気のよい日に頂上から眺める周囲は素晴らしいものだ。
目の下には那賀川、槍戸川の源流が落ち込み、その切れ込みをグッと大きくジローギュー(次郎笈)の東面が競り上り、遥か南はただ山ばかり。
ときによっては太平洋まで見られるという。
東の一ノ森までは一時間ばかり。
後には丸笹、西には塔丸、三嶺などがある。
他の登山路として穴吹駅から穴吹川をつめる穴吹川コースは約八時間。
直接見ノ越に出るが、垢離取橋を渡って富士の池から、一ノ森に出るのが普通のようである。
もう一つは那賀川、槍戸川をつめるコース。
ここはモンキー・センターやカラコルム探検で有名な今西錦司博士の一行が遡行されたとも聞く。
だが相当なアルバイトのようだ。
これを剣山裏参道という。
表は貞光コースである。
さて頂上三角点付近であたりの眺めを貪っていると、どうしても西の三嶺にまで行きたくなる。
北アルプスではないが西の石鎚―瓶ガ森を表銀座コースとすれば、こちらは差し詰め裏銀座通りであろう。
頂上を発ってすぐ右側に、五年ほど前の五月に三嶺から縦走の時、雨のため遭難死された徳島工大生の遭難碑があり、ちょっと緊張する。
ジローギューの頂上へは未だか未だかと、痩せた稜線を三十分の喘ぎ登りである。
剣山山系にあってこのジローギューのボリュームは、ちょっと異色かも知れない。
縦走路は頂上まで行かずに、鞍部からその北斜面のクマザサの中をトラバースする。
丸石までは道もはっきりしているが、間もなくブッシュの中を行くようになり、うっかりしていると、踏み違えるかも知れない。
約四時間ののち一七四一㍍の直下のこの縦走路中、唯一の清らかなトウハの水場に着く。
この辺りは暫くの間尾根を通らずに、恐ろしいような山容の石立山(一七〇八㍍)を左に見ながら間もなく石立山分れの辺りから、再び稜線上のクマザサの中を行くようになる。
やがて渓谷美の祖谷渓を隔て塔丸、寒峰、烏帽子が、そして目指す三嶺の物凄くデカイが、しかし何ともいえない美しさを持つ山肌が手に取るように見え出す。
出発して約六時間余で白髪分れに着く。
この辺りの小さい雑木の根元の表皮は、無残にも悉く剥ぎ取られており、猪や兎の仕業であろう。
また影あたりの猟師たちの話によると猪はおろか、熊や鹿も時々見かけるとのことである。
さて一気に名頃のコルに下る。ここから西下して沼井の奈呂から堂床に出る道もある。
だがさらに一七二四㍍の東熊山を経て、両側が酷く切り立った県境稜線を三嶺に出るわけだが、この辺り相当の緊張を要する。
稜線は高くて狭いし、その上まるで顔が地面にくっ付くほどの急坂であり、随所にやっかい至極な岩場があるからだ。
それでも三嶺の頂上に登り切れば、また何ともいうことを知らないほど。
登って来た剣とジローギューのでっかい尾根が黒黒と見え、二つの頂上は双耳峰のようにそば立ち、苦しめられた尾根筋も一望のうち。
石立山も、白髪山も。西方には西熊山、躄峠越しに天狗塚の尖がった頂上がわずかに見える。
槍ガ岳のような寒峰や八筈も目の前だ。全く飽くことを知らない四周である。
十分も東に下れば大きな池があり、よいキャンプサイトとなる。
冬季は厚い氷となっているが、いつもは水の涸れることはない。
(「四国山脈」より・昭和三十四年、高知鷲尾山岳会 川村 早雄)
そ の 二
土佐との国境にほど近い阿波の高山、海抜一九五五㍍の″平家の馬場″―東、一ノ森から白桧の林を縫ってくる騎馬武者は木屋平の定紋つけた一団。
北、丸笹山の斜面には轢生一族の旗印。
西塔丸の茅尾根からは八幡大菩薩の菅生一族。
思い思いの旗さしもの、馬印が続き、法螺の音色が祖谷の山谷に木霊する。
六百年の昔、高師直は吉野の行宮を焼き主上は戦禍をここに避けた。
悲運の最中、木屋平村の三ツ木左衛門尉忌部重村を中心に、一族郎党が続々平家の馬場に勢揃いし、剣山一揆を起こした。
この山頂に立ち、遥かな海峡の彼方の山山を望むと、その昔の武者たちの雄姿と、皇道の挽回を誓った心情がそぞろ偲ばれる。
今はその白桧も白骨と化し、その間から望む芝笹に覆われた平家の馬場には、ポッンと一棟のモダンな建物、気象観測所が建ち、風速計がチカリ青空の一点を光らせている。
剣山は歴史の山、伝説の山である。
悲劇の天皇安徳帝の御剣をこの山に安置したとかで、剣山と名付けたという。
頂上には宝蔵石という大きな岩もある。
その剣も石鎚と同じく信仰の山として、古くから登られたようで、頂上から東北へ四㌔たらずの富士池と、北側の見ノ越にはともに剣神社があり、立派な常住の社務所がある。
剣頂上の東、経塚大権現のある一ノ森(一八八〇㍍)から剣山、ジローギュー峠(一八〇〇㍍)、丸石(一六三四㍍)、白髪山(一七七〇㍍)に至る約十五㌔の尾根筋は、よく踏まれた道である。
一般登山者の少なかった時分、多くの土佐からの信仰登山者や韮生、祖谷の人人が山越し往来したためであろう。
今は下界によい路ができ、バスも走り出したので、山越しなどする人もなくなった。
高知からの剣山登山も徳島側から汽車やバスを利用するものが多くなった。
天狗塚、躄峠から三嶺、祖谷へ降り塔丸に登って丸笹山から剣山へ。
このコースの中での三嶺は素晴らしく、嘗て日本地理大系で北川淳一郎先生の三嶺紹介文を読んでから、病みつきになった。
こんな面白い縦走コースを通らずに、汽車に頼る近頃の人は気の毒だ。
「韮生へ韮生へとおいそぎなれどニロは石原小石原」祖谷越は嘗ての土佐の韮生と、阿波の祖谷を結ぶ交通路であった。
それが近頃は通る人もなくなったのか熊笹がはびこり、原始の山の姿に戻りつつある。
峠にお地蔵さんが立っていたが、一面の草ぼうぼうで今はさっぱり判らない。
白髪山から剣への道は小潅木が少しあるくらい。
所々に岳樺がみえ、冬は吹きさらしで、吹雪にでもなったら逃げ隠れもできない。
その折の遭難者のためのお地蔵さんだったのだろう。
四国の雪は西から始まり東北、剣山系に迫ると春だといわれる。
剣では四月末から五月にも雪がみられ、昭和六年の春、ゾンメルシーで一ノ森からスキーをつけ、白髪の岩場まで脱がずにスキーツアーを楽しんだ愉快な思い出をもっている。
その時のこと、スキーを担いで韮生へ降り、小川の傍で飯盒飯を炊いていると、私のスキーをいつのまにか子供が大勢で持ち出してガヤガヤいっている。人だかりのまん中で学枚の先生がスキーの説明をしていたが、先生も子供もスキーははじめて見たことだろう。
最近の白髪、剣尾根は道がだんだん悪くなっているようだ。
昔、といっても昭和五、六年ごろ夏山はかなり薮が深かったが、今よりよく踏まれていた。
剣頂上小屋は高知の中学生で賑わっていたのを憶えている。
(「四国山脈」より・昭和三十四年、元高知県山岳連盟副会長 小松 勇)
少しでも読みやすくと思い改行を追加しています
改行以外は何も手を加えていません
感想
夫婦池
夫婦池に着く。
大小二つの池があるが、水は大抵枯れている。
これ丸笹山の登山口にある夫婦池で間違いないと思うけど、、、
昔は枯れてるのが普通だったのか、、、
丸笹山、雪山初心者にも優しくて楽しいですよ
北側から見る剣山はカッコいいです
山奥でナンパ
道はここから西へ抜ければ塔丸(一七一三㍍)から壇ノ浦の平家落人の末裔が住みついたといわれる東祖谷村に出る。
この付近を五月三日だかのお祭の日に通り掛ると、忽ち祖谷村の女性に見つかり、無理やりに引っ張って行かれて酒食のもてなしを受けるそうである。
それから果たして金の延棒を貰うところまで行けば男冥利に尽きるというものだが?嘗ての日、その現実に行きあたって下へも置かぬもてなしをされ、気味が悪くなってほうほうの体で逃げ帰ったという話を、住友金属の岳人から聞いたことがある。
GWに剣山なんぞ行くと地獄を見そうで行こうと思いませんが
接待してくれるなら行くけどね
しかも女性にナンパされるなら絶対行く!!(笑)
※Google先生に聞いてみたが現在5月のお祭りは見つからなかった
しかし、、、使えない男と解ったら酷い扱いをされて捨てられるのね。。。
絶対に捨てられるから近づかないようにしとこう。。。
これって時代背景で考えると、、、
若い男が田舎、山奥に居なかったから、、、
って事だよね
今なら拉致、軟禁まがいで通報されるな(笑)
祭りって、昔は男女の、、って話を聞いた事がある
世間公認のコンパ、まさにお祭り騒ぎだったんだろうか。。。
山の隠語
トカゲを決め込む
って普通に言ってるけど、、、
なにそれ!?
Google先生に聞いてみると休憩って意味だそうです
『トカゲを決める』
意味は大休止
語源は
トカゲが大岩の上でゆっくりと日向ぼっこをしている姿から連想してあてられた言葉
もうひとつ休憩の隠語があって
『一本立てる』
意味は小休止
語源は
大荷物を担いだボッカがひと休みするときに、荷物の下に杖をあてがって、荷を下ろさずに立って休んでいた姿から。
荷物を支えた杖が、ここでいう「一本」になった
かつてのボッカの杖は、先のほうがY字型になっていた
山の隠語自体、実際に使っているのを聞いた事ないし
トカゲを決めるなんて初めて知りました
良く知られているのは『お花摘み』くらいでしょうかね?
慰霊碑
剣山~三嶺の縦走のところで
頂上を発ってすぐ右側に、五年ほど前の五月に三嶺から縦走の時、雨のため遭難死された徳島工大生の遭難碑があり、ちょっと緊張する。
剣山山頂から降りたところに、、、
遭難碑あったかな???
全く記憶にない。。。
慰霊碑を撤去するって、なかなか考え難いよね
これまた、今度行った時に確認してみよう。。。
現在、三嶺〜剣山縦走で雨とは言え遭難死するなんて考えられません
極度の体力不足で全くの素人、初心者なら救助要請は考えられるかな?ってレベル
当時を知る人と一緒に聞きながら歩いてみたいな。。。
トウハ
約四時間ののち一七四一㍍の直下のこの縦走路中、唯一の清らかなトウハの水場に着く
トウハ?
剣山~三嶺(白髪の別れの手前)で水場って事は高ノ瀬の事かな?
ググっても解りませんでした
誰か知りません?
追記
YAMAPでコメント頂き、トーハがわかりました!!
藤八谷
これがトウハですね
このコメントくれた、フォローさせて頂いている方の昭和55年のお話、、、
昭和55年クリスマス前後から降った大雪でその年は後日に[56豪雪]と呼ばれることとなる。
その正月休みに剣山~三嶺の縦走を我らは企画をしていた。
1日目 汽車とバスを乗り継いで葛籠堂バス停から歩き始め夫婦池に出る手前の直登では泳ぐようなラッセルとなった。
当時は夫婦池には国民宿舎が建っており夕刻にその床下にテントを張った。
2日目 終日のラッセルで剣山を越して縦走路に入るが丸石を過ぎた所で日が暮れヘッドランプの灯りを頼りに高の瀬手前の避難小屋(現在は倒壊)を必死になって探し出した。
3日目 三嶺までと思うが笹原に積もった雪のわかんラッセルははかどらず白髪避難小屋まで達するのが精一杯だった。
避難小屋は勿論現在のような建物ではなく2m四方をトタン板で囲ったトイレのようなもので脇にテントを張った。
4日目 今日で正月休は終わる。とてもじゃないが三嶺までは届かないと判断して縦走敗退と決めて下山を決める。
峰越林道もカヤハゲからさおりが原の山道も当時は無かったので唯一のエスケープルートは韮生越から堂床小屋しかなかった。
ただ4人のメンバーの誰一人もそのコースを歩いたことがなく不安もあったが一刻も早く雪地獄から抜け出したい一心での選択だ。
キャンプ地から白髪別れまで這い上がるのにもラッセルを交代しつつ1時間もかかった。
韮生越からの山道はうねうねと長く山腹を捲くコースでやたら長かったと覚えてる。
当時のさおりが原は噂の秘地で堂床小屋(現在は解体)の裏の竹藪から道が続いており、その小屋にへとへとになって到着したのは薄暗くなった頃だった。
夜道となった西熊林道を歩いてようやく影のバス停に着いたものの既に定期バス便はとっくの前に出ており大栃からタクシーを手配してもらった。
バス停前の商店(現在は廃業)のおばちゃんが夜半に下山してきたズタボロの我らを気遣ってくれて即席ラーメンを作ってくれた。
鹿の食害は最近?
出発して約六時間余で白髪分れに着く。
この辺りの小さい雑木の根元の表皮は、無残にも悉く剥ぎ取られており、猪や兎の仕業であろう。
この文に鹿が出てきてない
今や鹿の食害は大問題になっているのにね
自分の様な初心者は、今が普通で以前の様子を知りません
↓を見ると
2000年代に入ってから深刻化してきたようですね
カヤハゲ~三嶺
東熊山を経て、両側が酷く切り立った県境稜線を三嶺に出るわけだが、この辺り相当の緊張を要する。
稜線は高くて狭いし、その上まるで顔が地面にくっ付くほどの急坂であり
う〜ん、、、
東熊山(カヤハゲ)〜三嶺を歩いた事あるけど怖い所はなかった、、、
鎖もあったけど、、、無くても問題はないレベル、、、
当時は、こんなに言うほどヤバかったのか?
あそこがそんなに変化するかな???
いや、、、思ってる場所と違う、現在の登山道とは全く違うのかな。。。
登山はセレブの趣味
スキーを担いで韮生へ降り、小川の傍で飯盒飯を炊いていると、私のスキーをいつのまにか子供が大勢で持ち出してガヤガヤいっている。人だかりのまん中で学枚の先生がスキーの説明をしていたが、先生も子供もスキーははじめて見たことだろう。
う〜ん、金持ちの匂いしかしない
特に当時はセレブの趣味だったんだろうね
現在は、自分を筆頭に貧乏人でも山で遊べてます(笑)
現在の剣山
剣山の山頂でのんびりするのは最高ですよ。。。
初の雪山は剣山でした
登山口に行くまでの方が大変です。。。
山自体は雪山初心者にもお勧めで気楽に楽しめます
記事の意図
コピペで記事作成の意図はありません
目的は保存、紹介ですが
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必要であれば記事削除致します
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