四国の山なみ保存計画十五弾
古典山岳文献 四国の山山 の中から 虚空蔵山 を紹介します
第一弾はコチラ
※四国の山なみシリーズは一部ダークモードに対応していない箇所があります。ライトモードでご覧ください。文字の色、背景色等を変更して元の雰囲気を壊したくないので。古典山岳文献
四国の山山 ~ 虚空蔵山
虚空蔵山は三宝山層から成り、海抜高度は六七五㍍に過ぎないが、見晴しのよいことで有名である。
高速自動車国道から 平成十九年
鉾(矛)ガ峰展望台から北方遥かに、石鎚山、筒上山、手箱山、瓶ガ森の山山が一列をなして東西に走り、その手前にこれと並行して中津明神山、黒森山、鷹羽ガ森の山々がくっきりとその輪郭を現し、西方には遠く鳥形山、不入山の山容が目立っている。
南に太平洋を見下すと横波三里から野見湾へかけての、大沈降地形に特有な出入の多い海岸線が、目を引かずにはおかない。
とにかく頂上からの眺めは時の経つのを忘れさせる。最近、超短波無人無線中継所が設備された。
鉾ガ峰 平成十四年
かなり離れた薮にある一等三角点
土讃線斗賀野駅から東南方への斗賀野コースは、頂上までわずか四㌔。
所要時間一時間二十分といったところで、小学生でも楽に登ることができ、県民に親しまれている山である。
このコースは東、中、西の三コースがある。
また、頂上から東北へ北原コース、東南へ戸波(家俊)コース、西南へ吾桑コースがある。
斗賀野コースの途中には白水ノ滝があり、このコースがミコノ峠に出る手前は、格好のキャンプ・サイトである。
付近には草刈場古戦場がある。
戸波コースの途中の大文旦樹は日本一とのことである。
また、南方中腹の仏像は中生層へ古生層が衝き上げた一大構造線の通過地点で、地質学上有名な仏像構造線の名前はこの地名に由来する。
(「四国山脈」より・昭和三十四年、沢村 武雄)
矛が峰(虚空蔵山)縁起
鸞翔号が土佐沖を離れてから早や十数日になる。
長かった東洋の蓬莱国への探険行。
その無聊な航海生活を終えて、これから故国へ帰航するということが、すべての乗員の、一年近い旅路に憔悴した櫛風沐雨の赫ら顔に、時ならぬ紅潮さへただよわせていた。
しかも明日あたりは、すでに故国の海、東支那海に入るのである。
張郎は宵の口から甲板に出て、月の光や波の音が甲板一杯に醸し出す郷愁に似た雰囲気に魅せられて寝もやらず、微茫の遠くまで昼よりも尚明るい海原を眺めていた。
始皇帝陵
天下を一統した秦の始皇は、珊瑚の席にたいまいの莚をしき、ひねもす美姫を侍らせて龍鳳の珍羞をならべ銀や瓊の杯に葡萄の玉液を満たしたが、満たされないものは、永久に佳人とともに、年々の月を賞することのできない万斛の悲しみであった。
始皇帝の命をうけて、張郎や除福らが烟台の港を出帆した時、一行は四百に余る大勢で百万の金銀財宝を山積し、不老不死の霊薬を求めんがため、東方の蓬莱の国へ向かい、数艘の船は思い切って吃水ふかく一路東支那海の波を蹴った。
海上無事、案ぜられた程の嵐にもあわず、それでも幾十日の不如意な舟旅の後に安堵の錨を入れたのは肥前有明湾の寺井津の海であった。
だが頼みにした蓬莱山はおろか仙人にさえ逢うことができなかった。
一行の落胆はいうまでもない。
故国を出る時柳に吹いていた晩春の微風は、もう異国の濱松に粛々と早い秋を奏でて、それが何かしら一行に熱いものを沸らせた。
再び航海は続けられて土佐沖に入ったが、名にし負う黒潮の九十九灘、台風に叩きつけられたのはそれからしばらくしてのことである。
その日は朝から遠雷が聞えた。
昼過ぎから落日和になつた。
「しけだ」と思った時にはもうどうにもならなかった。
日暮から夜にかけて、三角波が目に見えて高くなった。
薄気味の悪い風が帆を鳴らし、やがて思った通り大粒の雨が来た。
暴風雨だ。
見渡す限り暗い海の上は、もう夜目にもしるく生物のような白い波頭の乱舞であった。
車軸を流す雨、狂える風、瀧津瀬のように艫を洗う荒浪。
一夜の中に一行の船は離れ離れとなり、鸞翔号が土佐沖に漂着したのはその翌日である。
月が四国山脈の果てに傾いた。
星が性急に瞬いている。
まだ暗い九十九灘に仄かな暁の色が漂い、蓬莱山―虚空蔵山の夜明けが来た。
漁夫に教へられた通り、「柴折ガ池」の水を霊薬として汲み取って、山上に一夜を明かした彼等の前に今壮厳な大海の日の出が始まった。
生れ出ずるものの無限の神聖!
一同は云い合せたように故国の空を望み、高く鉾をかざし、妻子を想って、しばし相擁して号泣した。
難航の為に大半を失って、僅かに残った金銀財宝はすべて頂上へ埋めた。
船は月下の海を急いでいる。
回想の糸がここで切れると、張郎の目にキラキラ光るものがあった。
矢のような帰心もさることながら、又それは時化以来生別れのままの除福らへの涙でもあった。
紀州熊野の浦に除福とその従者の墓石があると伝えられるが、もとより真偽の程は定かではない。
(土佐伝説全集より・昭和二十三年)
少しでも読みやすくと思い改行を追加しています
改行以外は何も手を加えていません
感想
虚空蔵山
虚空蔵山は三宝山層から成り、海抜高度は六七五㍍に過ぎないが、見晴しのよいことで有名である。
へぇぇぇ~~~
そう、行った事がないんです(^^;
車で山頂まで行ける山って、そこで興味が薄れてしまうんですよね。。。
虚空蔵山
土讃線斗賀野駅から東南方への斗賀野コースは、頂上までわずか四㌔。
所要時間一時間二十分といったところで、小学生でも楽に登ることができ、県民に親しまれている山である。
まだ行った事がありませんが、、、
本当に散歩気分で行ける山のようです
日本一!?
戸波コースの途中の大文旦樹は日本一とのことである。
日本一!?
今もあるのか???
ググってみるもわからない。。。
誰か知りませんか!?
矛が峰(虚空蔵山)縁起
始皇帝が不老不死の霊薬を求め東洋の蓬莱国(恐らく日本の事)へ使いをだす
一行はなんとか肥前有明湾の寺井津の海(佐賀県有明海)へ到着するが
蓬莱山(富士山説もあるけど不明が正解だと思う)はおろか仙人にさえ逢うことができなかった
再び航海は続けられて土佐沖に入ったが台風に会い漂着。
蓬莱山―虚空蔵山の夜明けが来た。
漁師に教えられた通り、「柴折ガ池」の水を霊薬として汲み取って山頂で一夜を明かした
壮厳な大海の日の出を見て、、、
生れ出ずるものの無限の神聖!
と感動した一同は、難航の為に大半を失い僅かに残った金銀財宝はすべて頂上へ埋めた。
そして一同は不老不死の霊薬を手に入れられぬまま故郷へと向かった。。。
※補足
蓬莱国
古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。
道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
蓬莱山
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬萊山」とは富士山を指すと述べた
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
簡単に言うと、、、
不老不死の霊薬を求めた始皇帝の使いが高知に漂着して虚空蔵山に金銀財宝を埋めて中国に帰って行った。
って話し
なにが元になって、こんな話が出てきたんでしょうね???
中国船が漂着したのは本当なんだろうか???
虚空蔵山~名前の由来予想
虚空 = なにもない空間
蔵 = 物をしまっておく建物
山 = 山
虚空蔵山 = なにもない蔵の山
すげぇ意味深な名前に想えてきますよね
金銀財宝は本当にあったけど、誰かが発掘して今はない。って事なのか
金銀財宝があるかと思って調べたら、なにもなかくてムカついたから虚空蔵山って山名にした。って事なのか
お宝の話が生まれて、それにまつわる名前として虚空蔵山で間違いないだろう
※勝手な予想・妄想です
予想・妄想は置いといて、、、
虚空蔵山の名前の由来は
虚空蔵山と呼ばれる山は全国にも多くあり、この虚空蔵山(長野県佐久市)の由来は、頂上に虚空蔵堂があり、中に本尊虚空蔵菩薩像が祀られていたことから虚空蔵山と呼ばれたそうです。
高知の虚空蔵山にも虚空蔵菩薩像があるんだよな。。。。
矛が峰の由来としては、、、
ググってみると、、、
水天万里の故国をしのんでホコを高くかざし号泣したという。徐福らは持参の金銀財宝を山頂へ埋め山を降りた。これが矛ヶ峰の名の由来である。
と言う事らしい
お宝を守る、隠す為に蔵菩薩像を祀ったのか、、、
各地の虚空蔵山にもお宝伝説がある筈、、、
と言う事にしとこう。。。
こっちの方がロマンがあるから(笑)
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